第12話 「花まつり」に地獄を見た 〜史上最大の都市災害〜

1970年(昭和45年)4月8日。「花まつり」の宵はのどかだった。

「こんにちは〜、こんにちは〜、世界の国から・・・・」
三波春夫の明るい歌声が弾んで、大阪は「万博景気」に浮かれていた。

大阪駅前の百貨店で、早々と屋上のビアガーデンが開店するという。花冷えでちょっぴり寒くても、若者たちの賑やかなスナップが撮れたら「ここにも万博賛歌!」と社会面のニュースになる。中之島の朝日新聞写真部で、ベテランの玉田耕三郎カメラマンが取材に出かけようとしていた。

午後5時45分、社会部から連絡が入った。「天六(てんろく)でガス漏れ、火事・・・・。頼みま〜す」。まだ宵の口、気軽に若いカメラマンが出かけた。

数分後、こんどは大声が飛んできた。「写真部さ〜ん、ヘリ飛ばして〜っ」と。天六の火事は、ガス爆発だった。出動頼む、空中撮影もよろしくという。「天六」とは、天神橋6丁目のこと、大阪駅東北約2キロの繁華街だ。どうやら、地下鉄谷町線の工事現場らしい、これは大事件になる−−。玉田がかけ出した。ビヤガーデンはもう、念頭になかった。

社会部は殺気立っていた。電話で、無線で、ポケットベルで、片っ端から出先の記者を呼び出し、現場へ走れっと怒鳴る。10数台並ぶ電話に、読者からの速報が殺到する。立ち上がったまま受話器をふたつ握って応答する記者、警察や消防局に電話をかけまくる記者、ABCラジオの「朝日新聞ニュース」用にフラッシュ原稿を書く記者・・・・。

万国博を契機に、過密都市大阪の再開発が急ピッチで進んでいた。その中心が、碁盤縞の地下鉄網を目指す緊急整備計画だった。5年間に6路線で計33キロの建設を終え、総延長64キロ。大阪は世界第9位の地下鉄都市になっていた。次の目標は周辺都市への路線延長で、その第一歩が都市計画道路北野・都島線の地下を走る谷町線東梅田−都島間3.2キロの延長工事だった。ここが、ガス爆発の現場である。

6時10分、高速道路を走った玉田が真っ先に現場に着いた。たちこめる黒煙のなかに炎が2本、10メートルもの高さに噴き上がっている。コンクリートの塊が飛び散り、自動車がひしゃげ、そこにもここにも、人が倒れている、血まみれの子供がいる。電柱にまで、人がぶら下がっている。サイレンがうなる、救急隊員が走る。民家が燃える、その火を映して空まで赤く燃えている・・・・。玉田は冷静に、シャッターを切り始めた。

6時30分、クレーン車が地下の工事現場から、5〜6人まとめて網で吊り上げた。婦人と子供の姿が見える。えっ、遺体なのか・・・・、地下の工事現場に、なぜ子供が・・・・。数多くの事件現場を踏んできた玉田が、目を疑った。足ががくがくと震えはじめた。M紙のカメラマンがアップで迫る。だが彼は、あまりにも凄惨すぎるこの光景を、クローズアップする気になれなかった。一歩下がって、震えながらシャッターを押した。

工事は、オープンカット方式で進んでいた。道路中央に幅10メートル、深さ15メートルの掘割をつくり、路面にコンクリート舗工板を敷き詰めて、道路に戻す。電気、ガス、水道、下水道、通信線などのパイプは、すべてトンネル内の支柱にぶらさげて固定する。これで車を走らせながら、安全に、順調に、工事は進むはずだった。

夜9時、ガス漏れの勢いがやっと弱まった。焦熱地獄を思わせた大混乱も、落ち着いてきた。消防車の放水が霧になって、投光機の光のなかに舞う。大爆発の時の様子が、次第にわかり始めた。

最初にガスが漏れたのは、支柱に固定してあったはずの口径500ミリの低圧幹線だった。漏れたガスが地下に充満し、舗工板のすき間から路上に流れ、猛烈なガス臭が広がる。何が起きたのか、と人だかりができた。事故処理車がかけつけたが、現場に近づき過ぎてバックする途中にエンスト。あわててエンジンのセルモーターを回す、その火花が漏れているガスに引火、処理車が燃え上がった。こわいもの見たさに、また大人も子供もかけ寄ってくる。だが、そこは舗工板の上だった。

その直後、燃える処理車の火が地下に充満したガスに引火、大爆発した。炎がビルの屋上まで噴き上がり、重さ400キロの舗工板が何百枚も跳ね上がり、道路が150メートルにわたって陥没した。見物の人の群れも作業員も爆風に飛ばされ、足元をすくわれて地下に落ちた。信号待ちの車もなだれ落ちた。周辺の民家が燃え始めた。

鬼火のように燃え続けた2本の炎がやっと消えたのは、10時前だった。「死者54人、行方不明40数人・・・・」と、消防指令車に張り紙が出た。「えっ、そんなに・・・・」と、うめき声。2000人を超える見物の人たちは、まだ動こうともしない。

玉田は、地下の爆発現場をねらっていた。舗工板のすき間から、カメラをぶら下げたがうまくいかない。崩れかけた足場が見つかった。よしっ、降りよう・・・・。Y紙のカメラマンと、そろりともぐりこんだ。ガスが臭う。頭上のガス管はまだ、シューッと炎を噴いている。もしストロボで引火したら・・・・。そんな思いを振り払うように、玉田のストロボが光った。Y紙がつぶやいた。「死なば、もろともだなぁ」と。

地下からの救出作業が一段落したのは、9日午前1時ごろである。大爆発から7時間が過ぎたというのに、ガスはまだ臭った。漏れたガスは、5万立方メートルと推定されている。2トン爆弾に匹敵する破壊力という。大都会の地中には、ひとつ間違えば大惨事につながるこんなに大きな危険がひそんでいたのだった。

後日にまとまった記録によると、犠牲者は死者79人、負傷者420人。死因のほとんどは、爆風で吹き飛ばされたための全身打撲だった。家屋の被害は全半焼が26戸、損壊が336戸にのぼった。だが記録のほかに、半径500メートル以内でドアや窓ガラスが壊れた家屋が1000戸以上、という資料も残っている。

2日後の閣議で佐藤首相は「都市の地下の総点検」を指示した。そして根本建設相は、今後の事故防止対策として「地下鉄建設はシールド工法になるべく切り替える」「ガス漏れの自動感知装置を設ける」と述べた。モグラのように掘り進むシールド工法の安全性の高さは、すでに常識だった。それが、なぜ普及しなかったのか。オープンカット方式の方が、手軽で、安上がりだったからではないのか。

過密都市の急務とされるガス、電気、水道などライフラインの増設も、一朝一夕には進まない。例えばガスの場合、交通渋滞がひどくてガス管の埋設が思うように進まない。だから、カロリーアップという手軽な手段でしのぐことになる。いざ事故となれば、カロリーが高まっただけ爆発力は強くなる。天六の事故が、まさにそうだった。

大爆発を招いた最初のガス漏れの原因について、大阪府警が鑑定を依頼した伊藤富雄阪大工学部教授(土木工学)の結論は「ガス管の埋め方や工事のミスが重なった人災」であった。具体的に言えば「埋め方や工事のミスが重なって、低圧幹線の接続部分からガス漏れが起きた」ということになる。

手軽で、安上がりで、そして単純なミス−−。いまなお「史上最大の都市災害」とされている天六ガス爆発事故は、まさに人災だったのである。

その責任はどこにあるのか。施工監督の大阪市か、実際に工事をした鉄建建設か、ガス管の維持管理に当たった大阪瓦斯か−−。大惨事を起こした社会的、道義的責任については三者とも認めた。だが直接責任については、なすりあいが始まったのである。それぞれの主張はこうだった。

【大阪市】
ガス管の埋設が規定より浅かった。これは大阪瓦斯の責任。

【鉄建建設】
ガス管の管理責任は大阪瓦斯にある。工事は大阪市の監督のもとに設計通り進めた。

【大阪瓦斯】
保安の第一責任は大阪市にある。ガス管の不備は、工事の打ち合わせ段階で鉄建建設に対策を要請した。


国分寺公園に立つガス爆発の犠牲者を悼む慰霊碑。毎年4月8日に、地元の町会が中心になって慰霊祭が催されてきたが、94年(平成6年)を最後に途絶えた。遺族も齢老いて、あの事故も風化しはじめたのか。だが慰霊碑には、いまも真新しい花束が供えられている。

翌年6月、刑事事件として大阪府警が強制捜査に乗り出し、業務上過失致死傷容疑で三者の計11人が起訴された。判決は、事故から15年後の85年(昭和60年)4月におりた。鉄建建設関係の5人と大阪市関係の3人が執行猶予つき2年〜10月の禁固刑、大阪瓦斯関係、鉄建建設関係の各1人は無罪だった。残る1人は公判中に死亡した。

長い裁判だった。判決がおりたとき、谷町線はすでに守口市まで延びていた。事故から7カ月後に、工事が再開されていたのだった。

今年の「花まつり」は、33回忌にあたる。現場周辺には高層ビルが立ち並び、凄惨なあの事故の名残りは、あとかたもない。脇道を少し入った小さな国分寺公園に、犠牲になった人たちを悼む慰霊碑が、ぽつんと立っているだけである。


ガス爆発の現場にはいま、高層ビルやマンションが立ち並び、とめどなく車が流れる。死者79人、負傷者420人を数えた大惨事がウソのように、活気に満ちている。地下鉄「天神橋6丁目駅」は、この道路の地下にある。

ただひとつ、救いがあった。犠牲者と家屋の損害などに対する三者の補償が、異例の早さで進められたことである。死者79人と家屋などに対する補償は、事故の8カ月後に終わった。死者は1人1200万円前後で、総額は約9億1000万円。負傷者に対する補償も、後遺症などで長びいた1人を最後に83年(同58年)に完了した。総額は、約5億9000万円だった。

大阪瓦斯、鉄建建設に諮り、担当者を叱咤して補償交渉を急がせたのは、中馬大阪市長だった。「万国博関連のあらゆる事業のなかで、私が一番力を入れたのが、地下鉄建設だった。そのスピードは世界に類例がない」「まず掘れ、金はあとからついてくる」とまで、言い切った人である。

その市長に補償交渉の先頭に立たせたのは、朝日の大阪市政担当、西崎建策記者がつきつけたあの質問だったような気がする。その質問は、こうだった。

「もし、あなたの肉親が爆発事故で死んでいたとしたら、どうしますか。告発状を誰に突き付けますか」
事故直後に朝日が連載した「あなたも危ない!ガス爆発事故を告発する」のなかで、彼は市長の返答をこう書いている。

(口元をひきつらせて)・・・・原因・・・・(絶句)。もちろん、市民を守る立場と、事故が市の工事現場で起きたという両面から、市長の私がすべての責任を負うべきだと思うし、現にそう思っている。

「フィルム5本は使った」。大惨事の現場で命がけで写した写真とスクラップ帳を見ながら、取材の思い出を語る玉田耕三郎さん。まるで戦場のような大混乱のなかでは犠牲者の人数さえ2転3転、一時は「死者100人を超える」という情報まで飛んだ。

中馬市長とは私も大阪市政担当時代につきあったが、誠実な人だった。それだけに、鋭い質問が身に染みたのだろう。この事故の心労が重なったためか、中馬さんは翌年に帰らぬ人となった。

古希を迎えた玉田さんは、スクラップ帳を繰りながら四半世紀を超えるカメラマン人生の思い出を語ってくれた。文化大革命直後の北京メーデーをポラロイドで写し、東京朝日へ電送して夕刊に載せたこと、メキシコ五輪女子体操でのチャスラフスカ(チェコ)とクチンスカヤ(当時ソ連)の競演・・・・。釜ヶ崎騒動、柏鵬の対決、両陛下の笑顔、姿見せた戦艦陸奥、三つ子ちゃん・・・・。

思い出深い取材から115枚の写真を選び、カメラマンを卒業した還暦の年に大阪・梅田の富士フォトサロンで個展を開いた。うち4枚が、天六の写真だった。「事件現場で震えたなんて、あの夜だけ・・・・」と笑う玉田さんに、もっとも愛着のある一枚は、と聞いた。彼が指さしたのは、地下にもぐってストロボをたいたあの写真だった。

「ほんと、命がけやったからなぁ・・・・」。しんみりと話してくれた彼は、115枚の写真を1冊の本にまとめよう、といま考えている。


◇参考資料・文献◇
朝日新聞記事、「社会部記者は見た−事件でつづる戦後50年」(朝日新聞大阪社会部編)