第17話 たかが野球、されど野球 〜社会部の甲子園〜



本土復帰30周年の記念の年に、沖縄大会の優勝旗を掲げて入場行進する初出場中部商の選手たち。市立西宮高校の女子生徒が、プラカードを持って先導する。

甲子園の夏は、今年もまた熱かった。第84回全国高校野球選手権大会。史上最多、参加4163校の頂点に立ったのは明徳義塾(高知)だった。

開幕の朝、凍てついたペットボトルを抱いて私は銀屋根の下にいた。選手入場。懐かしい大会行進曲、スタンドの手拍子・・・・。先頭は沖縄、初出場中部商の選手たちが歩く。あぁ、あのときは首里だった・・・・。44年も昔の光景が突然、よみがえってきた。

第40回記念大会(1958年)の開会式。首里は、大会史上初めての沖縄代表として甲子園の土を踏んだ。当時の沖縄は、まだ米軍の支配下。本土復帰への切ない思いが大観衆にも伝わったのだろう。「チバリヨ・・・・」と声が飛ぶ、指笛が鳴る、日の丸の旗が揺れる、どよめきが潮騒のようにスタンドに広がってゆく。

「あぁ、これが甲子園なのか・・・・」。記者席で私は、身じろぎもせずに見つめた。記者2年目、姫路支局員として初出場姫路南(兵庫)とともに初めて乗り込んだ甲子園で、涙ぐんでいた。これが甲子園との長い付き合いの始まりだった。

豊中球場で産声をあげた第1回大会(1915年)以来、夏の高校野球は朝日新聞の最大の年中行事である。社会部には毎年5月ごろに、キャップ以下6〜7人の野球班ができる。大阪大会の準備から甲子園が終わるまで4カ月間、持ち場を離れて野球漬けになる。62年に社会部に移った私も、その夏の44回大会の野球班に組み込まれた。

運動部のような専門記者はいない。ときには全く野球を知らない豪傑まで紛れこむ。大阪大会の戦評に「横めの速球」と書いたN君。「何や、これは・・・・」と怒鳴るキャップに「高め、低めというでしょう。横ですわ・・・・」と言い放った。キャップの苦労、推して知るべし。

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1915年(大正4年)に、大阪の豊中球場で開いた第1回大会は「全国中等学校優勝野球大会」だった。出場したのは10校で、京都二中が優勝した。

私は社会部では1年生だが、地方支局5年のキャリアと姫路時代での甲子園取材の経験がある。なんとかなるさと思っていたら、熱戦が展開されるグラウンドは運動部の取材領域、ゲーム以外の話題で大会を盛り上げるのが社会部の役割だった。

だから、選手の宿舎を訪ね歩く、アルプスの応援団にもぐりこむ、審判員の控室をのぞく、無料開放の外野スタンドで常連さんを探す・・・・。何を書いても、先輩のスクラップブックを焼き直したような記事になる。延長戦のナイターでネット裏の最前列に座り込み、呆然と月を仰いだこともある。

そんな私が、3年連続で野球班のメンバーにされてしまった。かつての野球少年だったことが、多分その理由だろう。腐り始めたとき、ある先輩が「やぶちゃん・・・・」と声をかけてくれた。名文家といわれた人だった。

「たかが野球、されど野球・・・・」「とにかく書かにゃ・・・・」
私は絶句した。「たかが野球と侮るな」というお叱りなら「わかりました」ですむ。あとのひとことは何だ・・・・。この先輩もまた、同じ思いをしたのか。そして、とにかく書きまくった・・・・。とすれば、野球班は文章修行の場ということか・・・・。先輩のこわさ、社会部の厳しさが身に染みた。野球班2年目、31歳のときである。


甲子園の記者席は、ネット裏スタンドの中段(写真の朝日新聞社旗の上)にある。社会部と運動部のデスク・キャップが常駐する大 会報道の指令所だ。10人も座れば超満員、記者たちは控室や食堂などで原稿を書く。

そんな私が、48回大会のキャップに指名された。えらいこっちゃ、である。だが甲子園には、やり残したテーマがある。「甲子園讃歌」を書きたい。「あの1球」が勝敗を分けたという劇的な場面をクローズアップし、グラウンドの中と外を結んで感動のドラマを綴りたい・・・・。朝刊社会面の連載企画だった。

しかし、グラウンド内は運動部の取材領域だ。この壁は分厚い。なんとかぶち破れないものか。担当の重森デスクに相談した。伝説の事件記者で、野球班の経験もある大先輩だ。「わかった、運動部には、おれが話をつける」。即決だった。

「讃歌」は、こうして実現した。「兄の死知らず力投」を、紹介しよう。

準々決勝で平安(京都)の門野利治投手は、報徳(兵庫)の強力打線を相手に力投したが、0−1で惜敗。その直後、グラウンドで長兄の死を聞いた。タクシーの運転手をしながら牛肉やレバーを届けてくれた兄だった。「利治はチームの一員、大事な試合の前だから」と、両親が6日間も秘め続けていたのだった。
まずは好調のスタートだった。だがこの大会では、ねらった「あの1球」はなかった。それが不満だとデスクに話すと「じゃ、おれとコンビで来年もやるか。再来年は50回の記念大会やぞ・・・・」と笑った。


開会式で、スコアボード前にできたテレビと望遠カメラの砲列。試合中は、ここから投手と打者の対決をねらう。一投一打もゆるがせにできないから、カメラマンは大変だ。

ねらい続けた「あの1球」は、翌年の49回大会の1回戦、連続出場の報徳と大宮(埼玉)でついに捕らえた。9回裏、報徳は2死から吉田の3塁打で3−3と追いつく。次打者太田2−2。次の1球、俊足の吉田が金子投手のゆったりしたモーションを盗んで3塁をける。和多捕手のタッチをかわして滑り込む−−。大会史上初の本盗による逆転サヨナラ、まさに劇的な「その1球」だった。

「これでいくぞ〜っ、今日の讃歌や」。記者席で、スコアブックをたたいて叫んだ。近くにいた野球班のメンバーが集まる。「あのボールを、大宮のキャッチャーにあげてくれないかな。審判に聞いてよ・・・・」。まず一人が走った。「手分けして、談話や。報徳のホームインと監督、大宮のキャッチャーとピッチャー、それに監督・・・・」。突発的な事件取材になれている社会部だから、これでわかる。全員が散った。「きょうの讃歌にいただきま〜す」と運動部デスクに声をかけて、私も審判員控室にかけ降りた。

1時間後、みんなの書きなぐったメモを集めて、私は「讃歌」を書き始めた。タイトルは「敗戦の記念品」。そのさわりを紹介しよう。

「記念にしなさい、と審判委員がくれたボール。ベンチの片すみで大宮の和多捕手は、黒い土に汚れたそのボールを見つめ続けた・・・・」

「すでに2死、金子君も勝てたと思ったそうだ。だが、思いがけない敵が現れた。5万人の大観衆が1投1打に大歓声をあげはじめたのだ。負けているチームを応援する“判官びいき”の甲子園・・・・」

「敗戦のボールを和多君に贈った審判委員は、中西悠四さんだった。本盗した吉田君に、ウイニングボールとしてあげるのが本当かもしれない。だが、和多君があまりに気の毒で・・・・」

「和多君は、記念のボールをスパイクバッグにポイと放りこんで去った・・・・。甲子園のコンクリートの通路に、彼のスパイクが乾いた音を立てた」
デスクとキャップの腐れ縁は、とうとう第50回記念大会まで続いた。「ようやる・・・・」と同僚たちはあきれた。自分でもそう思う。だが、社会部記者として、やらねばならないことが残っていた。

あの戦争で、大会は5年間も中断した。その間に、影浦将(松山商)、沢村栄治(京都商)、嶋清一(海草中)、中田武男(明石中)ら、かつて甲子園で活躍した55人もの選手が戦火に倒れた。敗戦後、高校野球の復活に立ち上がったのは、この選手たちと同じ世代の人たちである。そこには、ひとかけらの私心もなかったはずだ。

だから私たち次の世代は、また野球ができる嬉しさに、イモ畑をグラウンドに戻した。トンボを曳き、ジャガイモのように変形したボールを授業中につくろった。手作りのユニホーム、ズック靴、そんな姿でノックを受けた。

私たちに大きな夢を与えてくれた高校野球が、いま一部の大人たちのエゴの踏み台にされ、ひたすらに白球を追う少年たちの心を傷つけているのではないか−−。姫路南の担当から10年、高校球界との付き合いが深まるにつれ、そんなかげりが私の目にも映り始めた。節目の大会だからこそ、警鐘を鳴らしたい・・・・。

大会は朝日と日本高野連の共催である。だからこの記事は、パートナーだけでなく、自らにもメスを突きつけることになるかもしれない。若い記者には荷が重い。先輩の桑野将記者を野球班に迎えた。第13話「よど号の79時間」に登場したあの桑野君、姫路支局時代からの親友である。


阪神甲子園球場近く、鳴尾浜の「白球の森」に立つ記念碑。「もっと緑を」と1983年の第65回記念大会で日本高野連が出場49校に呼びかけ、翌年、新チームの主将たちが郷土の木を植樹した。「埋立地がこんなに立派な森になって」と世話役で奔走した丸山文男さん(写真・当時は朝日新聞高校野球事務局幹事)は喜んでいる。

大会前に夕刊で6回の連載企画を、2人でまとめた。「野球の名門・私立高校の本音」「野球部後援会のひいきの引き倒し」「球児むしばむプロ野球のスカウト」「人づくり失格、渡り鳥監督の実態」「ファイトなし、都会のもやしっ子の背景」「誰のための高野連、特権意識はないか」−−。タイトルは「白球を汚すな」にしよう。

デスクは、運動部長に了解を求めてGOサインを出した。担当を決めて、取材にかかった。桑野君は一番やっかいな「プロ野球のスカウト」を、「高野連の特権意識」は私が書いた。こうして「白球を汚すな」は、7月10日から夕刊社会面で始まった。北海道と沖縄の地方大会は、すでに始まっていた。

「プロ野球のスカウト」は、札束で有望な選手をつりあげ、使えなくなると簡単に捨てるプロの非情さを浮き彫りにした。ある監督はスカウトが示した選手の契約金を2倍につり上げ、選手送迎用のマイクロバスを買った。プロ入りはしたが、派手な生活に溺れて契約金を使い果たす、借金を重ねる、蒸発する、やくざの世界にまで溺れこむ・・・・。そんな悲劇のほとんどが、高校からプロ入りした選手だった。これで「高校野球は教育の一環と言えるのか」。桑野君の指摘は厳しかった。

私は、日本高野連会長佐伯達夫さん(故人)の話から書き始めた。要約で紹介しよう。

「敗戦の翌日、廃墟のなかで、夏の甲子園大会を復活させる話が始まった。その中心になったのは佐伯達夫さん・・・・」

「去年春、大阪府高野連が審判委員を委嘱している70余人の講習会で・・・・、練習台となった浪商と寝屋川高校の選手は疲れきっていた。せめてパンと牛乳をと審判の一人が連盟の理事に頼んだ。が、予算がないよ・・・・」

「3カ月後の大阪大会で。選手が脱帽して入るグラウンドをサンダルばきで歩き回る・・・・、大会を運営する連盟の理事さんだった」

「この春の選抜高校野球大会3日目。雨中の2試合は、ともに10−2と荒れた。ボールがすべり、四死球の連続・・・・。投手はみな、マウンドで首をひねり続けた。敗れた両エースは、自分の乱調が信じられないまま甲子園を去った」

「すべり過ぎたボール。その原因は、大会審判委員長である佐伯会長ら数人だけが知っていた。実は某メーカーが試作中の人工皮ボールだった。メーカー側でさえ当時は、すべりやすいと認めていた未完成品で、テスト中・・・・」
そんなボールが、春のセンバツ大会でひそかに使われたのだった。当時の公認野球規則には「アマチュアは牛皮ボールを使う」とある。「人工皮を公式戦に使ってもよい」という但し書きはない。「フェアプレー、オンルール」という高校野球の鉄則を、高野連自ら踏みにじった、ということになる。記事のなかで佐伯会長は、こう語っている。

「運営の立場は、ルール通りにはいかんもんだよ」
翌日、反響があった。「よう書いてくれた・・・・」と、大阪府高野連の若手理事や審判委員が電話をくれたのだ。嬉しかった。私に対する抗議もなかった。編集局長に高野連からの苦情は届いたようだが、局長は「朝日新聞は大変な新聞で・・・・、自分の会社の主催でも平気で批判するんですよ」と答えた、という話を随分あとで聞いた。

50回大会に移ろう。球宴半世紀という節目を象徴する「讃歌」で、初日を飾りたい。ふっと頭に浮かんだのが、校名のプラカードを掲げて開会式の選手入場を先導する市立西宮高の女生徒だった。初めて登場したのは31回大会、学制改革で新制高校が誕生した翌年だ。もう20年になる。

とすれば、プラカードの女子高生は男女共学のシンボルではないか。よしっ、ラブロマンスでいこう。選手入場の先導が縁で結ばれたカップルを探そう・・・・。「桑ちゃん、頼む。初日の讃歌や・・・・」。親友はありがたいもの、よっしゃのひとことで引き受けてくれた。だが、いい返事はなかなかこない。

お互いにもう、古希は過ぎた。先日、喫茶店で当時の苦労話を聞いたら、ぼやきから始まった。「おまえも、殺生なヤツや。無理ばっかり押しつけよって・・・・」。

学校で調べ、先導した女生徒たちを探して聞く、出場校にも電話と随分苦労したが、結局は見つからなかったという。だから初日の「讃歌」は「女の球宴」に切り替えた。倉敷工(岡山)の補欠選手の西山純子さんの話だった。いまでは大学野球で女性投手が公式戦に登板しているが、当時はほかに例がなかった。

「甲子園夫婦、見つけた」と桑野君から連絡があったのは2、3日後。茨木市の近田守さんと登母さん夫妻だった。守さんは33回大会に出場した豊橋商(愛知)の投手で、当時2年生。登母さんは県立西宮高1年生で、自宅近くの宿舎のアルバイトだった。

豊橋商は初戦で都島工(大阪)に2−3で惜敗した。その夜宿舎で守さんは、涙ぐみながら甲子園の土に汚れた靴下を洗っていた。その後ろ姿が登母さんの胸を締めつけた。選手たちは翌日に帰郷したが、みんなで登母さんに贈った寄せ書きに守さんは「来年、きっと来る」と書いていた。だが、約束は果たせなかった。「残念です」と、登母さんは甲子園のスタンプを押したはがきを送った。文通が始まり、ふたりは結ばれた。

近田夫妻はふたりの子供とともに、大会3日目の甲子園に来てくれた。タイトルは「白球のきずな」、見出しは「愛を育てた9年間」。桑野君はこう書いている。


緑のツタに覆われたあこがれの阪神甲子園球場。正面ゲートの左側に歴代優勝校の校旗が並ぶ。84回を数えた大会で、最多優勝校は中京の6回。松山商の5回、PL学園の4回がこれに続く。

「長女、7歳。名は葉子、甲子園球場の、あのツタの緑である。長男猛、5歳。焼け着くグラウンドにたぎるあの闘魂である・・・・」

「サイレンが鳴った。日大山形の選手がうなだれている。パパが泣いたあの日と同じ光景だった。スタンドで感傷にひたる“球宴夫妻”をよそに、ボクも野球の選手になるんやと猛君、そしたら応援に行ったるわと葉子ちゃん・・・・」

「きょう15日、終戦記念日。甲子園はしあわせな家庭をつくりあげた。平和なればこそ」
翌年は51回大会、球宴は新たな半世紀へスタートを切った。大会前の夕刊が楽しかった。キャップは桑野君である。

 ◎タイトル 「SF・夏の甲子園」 ◇文・眉村 卓 ◇え・佐々木侃司

SF作家眉村卓さんが、50年後の100回大会の模様を6回にわたって書いている。

開会式、選手たちは自動走路に乗って入場する。「プレーボール」。投手が帽子の受信機の指示にうなづき、第1球。「ストライク」。審判機が宣言する。第2球、打った。一塁手の頭上をふらふらっと超えてライト線に落ちる、右翼手が一塁へ送る。きわどい・・・・、捕球音と走者の足音を捕らえた判定機が「アウト」。

監督がベンチの作戦機を見る。この打者への第1球、外角低めのボールなら2ゴロの確率40%。「そこへ投げろ」。平然と見送る。校長がベンチに走りこむ。「大変だ、相手の作戦機は新型・・・・、こっちの指令電波の裏をかいている・・・・」
改めて読み直してみたが、なんとも楽しい。佐々木さんの挿絵が、また楽しい。そんな第100回記念大会が開かれるのは、2018年である。今年は2002年、えっ、あと16年でこんな高校野球になるのか・・・・。私は考え込んでしまった。



◇参考資料・文献◇
朝日新聞記事、全国高等学校野球選手権大会50年史(朝日新聞社、日本高等学校野球連盟)、日本高等学校野球連盟ホームページ