第19話 「タイポン」はまだ生まれぬか 〜猛獣王国の挑戦〜


日本人は「夢」が好きだ。だからお正月には、新聞記者も「初夢」を書く。

「レオポンの2世誕生」−−。1964年(昭和39年)正月の朝日新聞阪神版に、こんな見出しが躍った。甲子園球場に隣接する阪神パークの人気もの、レオ吉とポン子夫妻に待望の赤ちゃんが生まれたという。両親に寄り添って甘える3つ子ちゃんの、くりくり眼のかわいい写真が載っている。


レオポン第1号は永遠にと、剥製で保存されているレオ吉とポン子。ライオンの風貌にヒョウの斑点が鮮やかだ。(阪神パーク甲子園住宅遊園の「レオポンコーナー」で写す)

「おめでとう」と声をかけたくなるこの記事は、新年の連載企画「阪神のユメ」に吉瀬拓雄記者が書いた「初夢」だった。こんな断り書きがついている。

「初夢にちなんで、写真合成で“阪神のユメ”をお目にかけましょう・・・・。ユメ物語に近いものもありますが、そこはおトソ気分で、笑ってお見逃しのほどを・・・・」
ヒョウとライオンの血をひくレオポンは、世界でただひとつ、この阪神パークにしかいない猛獣だ。どんな赤ちゃんが生まれるのだろうと、誰もが朗報を待ちわびている。だから「がんばれ〜っ」と、レオ吉とポン子に贈るエールだったのである。

「新しい猛獣を生み出そう」−−。世界各地の動物園がこんな競争を始めたのは、平和がやっと戻った50年代である。新品種づくりを競う動物学者、珍獣で客寄せを目論む動物園、そんな思惑が背景にあった。そして欧米からは、トラとライオンの混血児である「タイゴン」や「ライガー」誕生のニュースが届き始めた。

阪神パークが選んだのは、諸外国には例のないヒョウとライオンの組み合わせだった。55年に園内で生まれた甲子雄(かねお)と園子(そのこ)を、まだ赤ちゃんのときに同居させた。「子どもが生まれたらレオポンだ。ライオンが百獣の王なら、レオポンは百獣の大王・・・・」。よほど自信があったのだろう、土井弘之園長のこんな言葉が残っている。

4年後にレオ吉とポン子がめでたく誕生して、レオポンの夢は現実になった。

「LEOPON:Japan´s Spotted Lions」

阪神パークは、世界の先端を走る動物園になった。生まれて間もないレオ吉とポン子を執務室で抱き上げて喜ぶ土井弘之園長。(「レオポンコーナー」の展示写真から)

「レオポン:日本の斑点のあるライオン」−−。「新しい猛獣誕生」のニュースが、世界をかけ巡った。マスコミが押しかける。アメリカから、西ドイツから、動物学者や動物園関係者の視察団が来る。動物園水族館協会から表彰状が届く。もちろん観客は殺到する。阪神パークは一挙に、世界の先端を走る動物園になった。

夢の実現はまた、新たな夢を誘う。レオ吉とポン子の赤ちゃん、レオポンの2世がほしい。そしてさらに、新たな猛獣を求めて・・・・。阪神パークの挑戦は、なんと12年余も続いたのである。当時の動物主任だった近藤儀一郎さんが後日、朝日新聞に語った「聞き書き・レオポン伝」に、そのドラマが克明に記録されている。

59年11月2日夕刻。「生まれた〜っ」と、遊園地係の大声。近藤さんは、一目散に獣舎に走った。甲子雄が子どもをくわえて立っている。大変だ〜っ、敷きワラを、釣りだしの餌を、と大騒ぎになった。甲子雄も驚いたのか、寝室に戻って子どもを離した。

翌日の未明。「2ついるよ」と夜警にたたき起こされ、また走った。「ギャオ」と泣き声。園子の腹の横で2頭が動いている。これがレオ吉とポン子だった。

「薄い銀色の毛が光って、それはもう、声が出ないほどきれいでした」
かけがえのない生命だ。記者がかぎつけ、見物客が押し寄せたら大変だ、と厳しい箝口令がでた。世界を驚嘆させる大ニュースだったのに、朝日新聞が「レオポン誕生」と報じたのはなんと40日後。しかも、これが特ダネだったとは・・・・。テレビが週刊誌が、そして観客が、押しかけはじめた。

500万円かけて、レオポン舎を新築した。親子の引っ越しを始めた60年2月22日朝、報道陣が押しかけた。テレビのライトを浴びせる、フラッシュが光る。レオ吉とポン子が、びっくりして泣きだす。甲子雄と園子が興奮する・・・・。

「7人ほどで園子を大きな木箱に移したら、ドドーンと天井をぶち破り、2、3人に頭突きをかませて飛び出した。ハッとしたら、目の前にでっかい園子の顔があって・・・・、ゾーッとして・・・・」
キリン舎の方へ、園子は突っ走った。名前はやさしいが、ライオンだ。お客も50人ぐらいはいる。危ない。「近くの建物にお入りください」と、スピーカーが怒鳴る。あわてて空いた檻に逃げ込む。新築のレオポン舎まで避難所になった。

サイレンが響く、機動隊だ、消防車も救急車も来た。球場の係員も応援にかけつける。パトカーで通路を閉ざし、甲子園浜の網元から借りた漁網を張る、放水しながら包囲網を徐々に狭める・・・・。門外に出たら撃てっ、と猟友会のメンバーが銃を構える。


母親の園子に甘える3つ子ちゃん。吉瀬記者は成長したレオ吉、ポン子の写真にこの3つ子の写真を合成して、「レオポンの2世誕生」の初夢記事を書いた。(「レオポンコーナー」の展示写真から)

報道陣のヘリコプターの轟音。記者、カメラマンの人数が増えた。ラジオカーから原稿を送る声・・・・。

「レオポンを元の部屋に戻し、肉をまいて待ってると、3時間半ぐらいで帰ってきたんです。ケロッとして・・・・。動物は、感情の切り替えが早いんですねぇ」
レオ吉とポン子は1歳になった。弟妹をつくってやろうと親離れさせたら、7カ月後に園子がまた3つ子を生んでくれた。1男2女、ジョニー、チェリー、デイジーと名づけたのは、西ドイツのネコ学者レイハウゼン博士だった。

「園子も2回目で、落ち着いてました。乳もよう出たし、子どもは1カ月ほどで肉をなめるようになりました。甲子雄とも仲むつまじく、ええ夫婦でしたなぁ」
レオポン一家は、7頭の大家族になった。毎日、夕食後30分もすると、レオ吉が東の空に「ウワォ〜ッ」と吠える。ジョニーが続く。ポン子、チェリー、デイジー、それに園子や他の檻のライオンまで加わって、大合唱となる。

「いやぁ、壮観でした。まさに猛獣王国・阪神パークで・・・・」
レオ吉とポン子が2歳になった。人間でいえば17〜18歳の青春である。レオポンの2世がほしい、土井園長の期待がふくらみ始めた。だがヒョウとライオンは、同じ食肉目ネコ科でも「種」が違う。だからその混血児レオポンは「種間雑種」。2代目は生まれない、というのが生物学上の定説だ。男性側の生殖機能が著しく低いためらしい。


5頭のレオポンを生み、育てた甲子雄と園子の剥製(奥の2頭)。甲子雄はぐんと小柄で、ノミの夫婦だった。手前は、成長した3つ子ちゃんの剥製。左からジョニー、チェリー、デイジー。(「レオポンコーナー」で写す)

土井園長はこう考えた。「何%かの精子は残っているはず、これを正常のレベルに回復させたら・・・・」。飼料に特殊なホルモンやビタミンを含ませ、薬剤を混ぜて、レオ吉に与えた。こうして2年、3年・・・・、しかし効果はなかった。吉瀬記者が書いた「初夢」は、ユメ物語に終わってしまった。

土井園長はさらに、第3のテーマを秘めていた。トラとレオポンの混血児「タイポン」である。男性はだめでも、レオポンの女性側の生殖機能は正常のはず。トラのお婿さんを迎えよう。成功したら、混血児レオポンのヒョウとライオンの血に、新たにトラの血が加わる。「タイポン」こそ史上最強の「3冠獣」、これぞ幻の猛獣というのである。

67年9月、北九州市の到津動物園から、ベンガルトラのベンを迎えた。花嫁は6歳になったデイジー。10月6日、サルとチンパンジーの仲人で結婚式をあげた。

「精神安定剤の効果でしょうか、うまく馴れあって順調でした。妊娠したらしい、と気づいたのは11月中旬でしたか。3冠獣誕生やと、わくわして・・・・」
12月26日夕、デイジーがおかしい。獣医を呼びに走った。急いで戻ると・・・・。

「デイジーのお尻に、真っ赤な塊があるんです。しまった、死産や・・・・。あわてて水をかけたら、デイジーが振り返ってペロッ・・・・。あっと言う間でした。150グラムほどでしたか・・・・、獣医と顔を見合わすだけで、声も出なかった・・・・」
「一度、死産すると、もうめったに子はできない。いまとなっては、なにひとつ証拠は残ってません。ちゃんと生まれてたら、どんな子になっていたか・・・・。後になるほど口惜しくて、口惜しくて・・・・」
「3冠獣」の夢もまた、幻と消えた。阪神パークの挑戦は、ついに終わった。世界を驚かせたレオポン一家の系譜も、85年7月のジョニーの死を最後に途絶えてしまった。

小春日の午後、吉瀬さんと園舎2階の「レオポン・コーナー」を訪ねた。レオポン一家の7頭は剥製になって、人っ子ひとりいない部屋に寂しそうにたたずんでいた。

あの初夢のころ、猛獣の歴史に新たな1ページを加えた君たちは、華やかなスポットライトに輝いていた。そのときからもう半世紀が近い。改めて思う。あの賑わいは一体、何だったのか、と。あれほどの人智を尽くしてもなお、「種間雑種は一代限り」という大自然の摂理は微塵も揺るがなかったからである。

「夢」のレオポンを生み、育てあげた甲子雄よ、園子よ、ほんとにご苦労さん。レオ吉とポン子、そしてジョニー、チェリー、デイジーの3つ子ちゃん、楽しかったかい、君たちの生涯は・・・・。


レオポンの写真や資料を眺めて、阪神支局の甲子園担当時代を懐かしく語る吉瀬拓雄さん。レオポンの一挙一動がニュースになった。目が離せなかったという。入園料大人50円、小人20円の時代だった。(「レオポンコーナー」で)

近藤さんは聞き書きの最後で、こう語っている。

「ええ、レオポンづくりに批判のあったことは知っています。でもね、生きた遺伝学の教材で子どもたちの夢を育て、動物への関心を高められたらと思って・・・・」
2003年の春、「阪神パーク」は73年の歴史に終止符をうつ。広大な敷地は、商業地域に変わるという。宝塚ファミリーランドも、神戸ポートピアランドも同じように閉園する。少子化や遊びの多様化などが、その原因とされている。時代はすっかり変わった、しみじみとそう思う。

閉園後、剥製のレオポン一家はどこに住むのか。落ち着き先はまだ決まっていない。吉瀬さんもまた、寂しそうだった。


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「阪神パーク」の閉園から1年、レオポン一家はとうとう離散してしまった。レオ吉とポン子は大阪市の天王寺動物園に、チェリーとデイジーは東京・上野の国立科学博物館に、それぞれ引き取られた。西宮市に寄贈されたジョニーだけが、地元に残っている。

天王寺動物園と国立科学博物館にはしかし、常設展示の計画はないようだ。学術資料としての価値は確かに高いけれど、20世紀のあの時代に大自然の摂理に背いて産まれてきた、というレオポンたちの過去がそうさせるのかもしれない。

ジョニーはいま、甲子園にほど近い「リゾ鳴尾浜」で公開されている。「タイゴン」や「ライガー」は、どうしているのだろうか・・・・。独りぼっちのジョニーは、そんな郷愁をかみしめているに違いない。


◇参考資料・文献◇
朝日新聞記事、阪神パーク甲子園住宅遊園のホームページ、「レオポンコーナー」の展示資料