第21話 優等生が奈落に墜ちた 〜ちんちん電車の挽歌〜


大阪の人たちは市電を「ちんちん電車」と呼んだ。気軽で、便利で、おまけに安くて、ごとんごとんとのんびり走る。お急ぎのご用でなかったら、まあ「ちんちん電車」に乗りまひょか・・・・。ほんと、頼りになる市民の足だった。あの戦争中の1943年(昭和18年)に、なんと143万人を運んだという記録が残っている。

69年(同44年)3月31日、その「ちんちん電車」が消えた。高度成長が運び込んだモータリゼーションの荒波に押し流され、廃業に追い込まれたのだった。

夜11時30分に梅田の阪急東口を発車する守口行き、これが創業以来65年の歴史を閉じる最後の電車だった。「ご苦労さん・・・・」「ありがとう・・・・」。春とはいえまだ薄ら寒いこの夜、2000人もの人たちが電車を囲んで道路を埋めた。

花束をもらった運転手と車掌が、もみくちゃになる。コメットが鳴る、テープが飛ぶ、フラッシュが光る・・・・。誰かが口ずさんだ「蛍の光」が、うねるように広がってゆく。そして2000人の大合唱となって、ビルの谷間に響き渡る・・・・。

こちら社会部。午前零時が過ぎた。「えらい騒ぎで・・・・、まだ発車できません・・・・」。溝上瑛記者のハンディトーキーから、息せききった声が飛び込んできた。

朝刊の締め切りが迫っている。現場には、玉田耕三郎カメラマンもいる。第12話「天六ガス爆発」に登場した、あの玉田さんだ。写真の心配はない。「了解、とにかく原稿送ってよ、あとは追加で・・・・」。そう答える私の耳にまで、受話器の奥から歌声が届いた。最終電車は結局、1時間も遅れて発車した。

「65年半、ご苦労さま」−−。翌4月1日付朝刊の1面に、横3段の大きな写真と大見出しが並んだ。溝上君はこう書いている。

「最終電車の赤い尾灯がネオンの谷間に消えて・・・・」
「・・・・カーラッシュが都市交通を変容させた、歴史的瞬間だった」
そうか、「蛍の光」はちんちん電車の挽歌だった・・・・。午前3時過ぎ、刷り上がった朝刊を眺めながら、私はそう思った。いまもなお、あの歌声は耳の奥に残っている。

大阪の市電は、ちょうど1世紀昔の1903年(明治36年)9月12日、花園橋(九条新道)−築港桟橋(大阪港)の5.1キロで開業した。「市民の足は市営で」と、大都市自身が経営に乗り出した全国初の路面電車だった。

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114.1キロと史上最高の営業キロを記録した1957年(昭和32年)11月の案内図。乗車料金表には、片道13円、往復25円。身体障害者、日雇労働者の特別往復割引券15円とある(大阪市交通局「市電保存館」の見学のしおりから)

以来65年、度重なる不況を乗り越え、空襲や台風の惨禍をくぐり、戦災復興を支え、安い運賃で走り続けた。だから乗客は増える。その大きな収益で新しい道をつくり、橋を架けた。その道を、橋を、新しい市電が走る。街が広がる。こうして50年代末期には、28路線、114.1キロという史上最多の路線網が全市内を覆った。街づくりにまで貢献した都市交通の優等生、それが大阪の市電だったのである。

その優等生を、奈落にたたき落とす事件が60年(昭和35年)10月6日に起きた。北大阪一帯に広がった交通渋滞だ。人も物も10時間にわたって動けず、商都大阪はマヒした。「元凶は、市電だ!」−−。大阪府警は、こんな烙印を押した。2カ月後に道路交通法が改正され、市電の聖域だった軌道敷内の走行を車にも認めることになった。悪法だとしても、法は法。これが市電の致命傷になった。

車に包まれて市電は動けない。時間がかかる、乗客が減る。運賃収入は激減する。採算がとれない。2年後に、大渋滞の常習地域から線路の撤去を始めたが、累積赤字はついに130億円を超えた。民間会社なら倒産必至。地下鉄とバスに後を委ねて「ちんちん電車」は消えた。これもまた、全国の主要都市では初めてだった。

都市交通の主役交代−−。歴史に残るこの現実を、読者にどう伝えるか、報道合戦は激しかった。事実がすべての事件取材と違って、行政記事は視点が勝負だ。高度成長、経済効率という視点なら、主役交代は必然の結果になるだろう。利用者の立場に立てば何が見えるか。それを書こう。おれたちは社会部じゃないか・・・・。

当時の大阪市政担当は私と溝上、倉本進両君。2カ月も前から関連記事を書き続けた。「地下鉄、バスなら実質値上げ」「前途は多難、大阪の足」「欲しい都市交通の総合対策」・・・・。だが、何を書いてもパンチがない。各社も同工異曲だ。そりゃそうだろう、すでに何年も前から、歴代の市政記者が書き続けたテーマじゃないか。

楽しく、ほろ苦い企画はないのか・・・・。3人で知恵をしぼったら、歴史・考古学に造詣が深い溝上君が、妙案をひねりだした。

「ちんちん電車65年、サラリーマンの定年じゃないですか。明治から昭和まで、そのときの世相に市電のエピソードを重ねたら・・・・」。
「そうか、定年前に会社は大赤字、それじゃ退職金も出そうにない・・・・」
「よっしゃ、面白い。タイトルは『市電定年』で、10回続けよう。1回25行で昔の写真つき、大阪版でいこう。溝やん、頼む・・・・」
こう決めたら「えっ、たった25行・・・・」と溝上君が絶句した。新聞の1行は、当時は15字だった。25行なら375字。こんなに短い連載企画の例はない。だが、私には確信があった。歴史のひとこまを大胆に切り取り、その世相とエピソードを簡潔に軽妙に、生き生きと書く。これは受けるに違いない、と。

記者クラブから、溝上君の姿が消えた。そして半月、彼はノート3冊にびっしりとデータを集めてきた。テーマをしぼる。書き始める。だが、どう書いても25行には収まらない。「よっしゃ、後はおれに任せろ・・・・」。こうして『市電定年』は、3月13日の紙面から始まった。最初の【夕涼み】から“さわり”を紹介しよう。


創業翌年の1904年(明治37年)から7年間、築港線を走った「2階つき電車」。「納涼電車」と人気になった。前に救命網がついている。写真は創業50周年に復元した車両。「市電保存館」にある(同、見学のしおりから)


明治末期から道路が舗装される昭和初期まで、砂ぼこりをおさえる「散水車」が8トン入りのタンクを乗せて走った。前に救命網がある。写真は1925年(大正14年)に製造された車両で、完全な姿で保存されている(同、見学のしおりから)

【夕涼み】「市電は如何にして動くか。電気にはプラスとマイナスあり。運転は制御器にて行うも、説明がこみいるゆえ省く」(創業期の大阪朝日新聞から)。住吉区の三宅彦治郎さん、86歳。当時の運転手だ。「沿線はスイカ畑とアシの原っぱで、魚釣りかカモ撃ちの客ぐらいしか乗らなんだ。いっぱいやんなはれと、タイくれる客もいましたでぇ」「2階つき電車は人気がおました。往復8銭で船場のだんさんが夕涼みに下駄ぬいでのぼったり、のどかなもんでした、ほんまに」。

【公害対策】◇夕立サービス◇人力車といっしょに、町並みをかきわけて走る。路盤はがたぴし、ほこりがもうもう。「せんたくがわやくちゃや」。公害のはしりである。明治44年8月、8トン入りのタンクを積んだ散水車が登場。バルブをひねると14メートル幅に夕立が降った。◇ドジョウすくい◇繁華街まで路線がのびてくると事故続出。明治41年、人力車をはね飛ばし、死亡事故1号が出た。対策は車の前にとりつけた救命網。命拾いした年寄り、こどもは限りなかった。

【女性専用】上六から東へ、坂をころがる市電に警官がたまげた。「運転手がいてへん」。18歳の娘運転手が空襲におびえ、お客一人を乗せたままブレーキもかけずに逃げたのだった。客は通りかかった車で救出したが、無人の市電は終点の今里まで2キロを突っ走り、焼けた市電に激突。敗戦前夜の昭和19年、男はいない。17〜18歳の女性車掌が速成の運転手に、花街の“ねえさん”が車掌に。大正、港区の軍需工場街に「婦女子専用車」が走った。女性もまた、産業戦士だった。

【民主局長】敗戦、インフレ。10銭だった片道料金が、21年3月30銭、22年3月40銭、7月1円50銭、11月2円、23年5月3円50銭、8月6円。6円になった日、交通局長や市会議員がメガホン片手に乗り込んだ。「本日よりまたまた値上げのやむなきにいたり・・・・」。2年半で60倍にもしたおわびだった。「GHQがやかましゅうて、ぎりぎりまで値上げを認めよらん。切符の印刷が間に合わんでなあ。23年5月には、4円の予定が3円50銭に値切られてしもた」とは、天王寺区に健在のメガホン局長辻井富之助さん(72)の思い出話。いま、からだをはって市民に釈明する“民主局長”はいない。

「ちんちん電車」の遺産は大きかった。軌道敷112万平方メートル、電車190両。 『市電定年』の最終回には【送別会】のテーマで、身につまされる話を書いた。

「線路のけても、土地は市電さんの財産や。時価にして1600億円、赤字がなんやねん・・・・」
「あかんあかん、国道、府道とちゃんと名前ついとる。いまさら買い上げてくれるかいな・・・・」
静かになった阪急東口で、安全地帯を壊す工事が始まった。一日でも早く車に道路を空け明け渡すために、敷石をはがし、線路と架線を撤去し、舗装し直す・・・・。市内のあちこちで、すでにこんな工事が続いていた。ほとんどが夜を徹しての作業だった。昼間は車の邪魔になるからだ。いま思えば、ほんとに「クルマに優しい時代」だった。

30年が過ぎて、「人に」「環境に」優しさが求められる時代になった。高度成長が終わり、バブルがはじけ、失業、倒産が続く激変の時代が、私たちの価値観を変え、倫理観を呼び覚ましてくれたのだ。

だから、都市交通も変わらねばならない−−。「バリアフリー」と「クリーン」をキーワードに、すでにヨーロッパやアメリカで普及しはじめている「LRT」(Light Rail Transit)を導入する動きが、各地に広がっている。

車体が軽くてスマート、超低床だから身体の不自由な人や高齢者、妊婦、幼児も楽に乗り降りできる。電力で走るから、排ガスによる環境汚染がない。そして何より建設費が安い。地下鉄の5%、新交通システムの10%程度に収まる。

路面電車のある岡山、広島などは、すでに導入を始めた。長崎にも近くデビューする。さらに川崎、宇都宮、静岡、高知、仙台・・・・。「大阪の堺市が、市内の東西幹線にLRTの導入検討へ」というNHKニュースも流れた。

LRTは「21世紀のちんちん電車」になりそうだ。このLRTで新しい町づくりを、という発想も出はじめている。しかし、100年前に全国の公営路面電車の先頭に立った大阪市には、まだ具体的な動きはない。

「ちんちん電車」に話を戻そう。190両の遺産はどうなったか。市交通局の保存館に残るのは、2階つき電車と散水車、それに「蛍の光」に送られた「3050号車」など代表的な6両だけである。大阪の阪堺電車や広島電鉄、長崎電軌などに引き取られた幸運な車両もあるが、大半がスクラップになってしまった。もったいない話だ。


大阪・阿倍野区の街を、ゆったりと走る阪堺電車上町線。懐かしい「チンチン電車」の面影を残して、市電受難の時代を生き抜いてきた。いまは車と見事に住み分けている(天王寺駅前で写す)

阪堺電車に移ったのは10両。うち9両は、恵美須町−浜寺駅前、天王寺駅前−住吉公園を元気に走り続けた。1両は、シンセサイザーつきの貸切りカラオケ電車に姿を変えた。職場の懇親会や子供会、同窓会などに大もてだ、と倉本君が書いた記憶がある。

いまもなお現役だろうか、と問い合わせたら、10両とも引退していた。浜寺公園の大阪府営「交通遊園」に寄付した1両が、公開展示されているという。気軽に見学出来る遺産の市電は、おそらくこの車両だけだろう。早速、出かけた。

お昼前に恵美寿町から乗る。乗客は7人、通天閣を左に見て、裏通りをがたんごとんと走りだす。2分足らずで南霞町、18人に増えた。背にリュックのおっちゃん、買い物かごのおばちゃん、子どもの手をひくお母さん。お得意回りか「20分ほどでお邪魔しま〜す」と携帯電話にうなづく人、あっけらかんと話し合うおばさんグループ・・・・。

やがて住吉鳥居前。リュックのおっちゃんが降車ボタンを押したら、運転席の電光掲示板に文字が浮かんだ。

「顔なじみ 今日も乗ってる阪堺電車」「笑顔 ふれあい チンチン電車」
市電ではないけれど、気さくで便利で、普段着の「ちんちん電車」は健在だった。終点の浜寺駅前まで14.1キロに29駅、50分の旅は楽しかった。


母と子と遊ぶ「130号」を「交通遊園」で見つけた。「市電定年」後は「阪堺電車」で、しかもなれない「カラオケ電車」で稼ぎ、いまは悠々と余生を送っている(浜寺公園の「交通遊園」で写す)

「交通遊園」で、目指す車両を見つけた。2組の母子が遊んでいる。「これ、昔の大阪の市電ですよ・・・・」と話しかけると、「えぇっ・・・・」と驚いた。市電を知らない若いお母さんだった。乗り込んで、あれっと思った。両側の座席の前に、細長いテーブルがある。入場無料の「交通遊園」だから、休憩所に改造したのだろうか。

車体の前に「130」の文字。市電時代の車両番号か。そうだとすれば、創業間もない1908年(明治41年)から4年間に280両製造した「11型」車両ということになる。そんなに古い「130号」が、阪堺電車に移籍してからもなお、30年も走り続けたのか・・・・。いや、それはない、もしかして・・・・。

また電話をかけた。「130」は、阪堺電車の車両番号だった。そして・・・・。

「あの車、うちで楽しい車に改装しましてね。えぇっ、ご存じでしたか。よう稼いでくれましたよ、最後まで・・・・
やっぱり、そうだった。「130号」は、懐かしいあのカラオケ電車だったのである。還暦を待たずに早逝した倉本君に、この朗報を届けようと思っている。


◇参考資料・文献◇
朝日新聞記事、「社会部記者は見た」(朝日新聞大阪社会部編)、「市電保存館」見学のしおり(大阪市交通局)、「阪堺沿線ぶらりマップ」(阪堺電気軌道会社)、「路面電車を考える会」ホームページ