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No.88 忘れえぬ人々 ex JA1CLNとex JA1AYC

【見事なまでの身の処し方:JA1CLN】(1923-1996)
JA1CLN、笠原 豊さんは国際電信電話(株)の国際間通信のプロフェッショナルとして、欧州や南米など外国勤務が長く英語、スペイン語などに長けていました。同社を退職後、JARL国際課長に就任、IARU第三地域総会などで活躍、そして退職、再び東京・渋谷の貿易会社に勤務する頃、中国の福建省福州市を訪問して市内の中学や少年宮に5つのクラブ局を友人ら10名と共に機材の援助、開設を行いました、これをきっかけに中国語の習得にも手をのばしたといわれています。その後、貿易会社の役員勤めは、体調に合わせて週に3日から1日の勤務へと次第に減らしてリタイアに至りました。声のかすれから咽頭ガンを疑い1995年12月検査入院、正月には自宅へ戻り静養していました。

折から周海嬰さん(BA1CY、魯迅の子息)は東京・三鷹の娘さんのところに双子のお孫さんの誕生に合わせて来日していました。娘さん宅でもワイヤーをベランダに張って短波受信機でBAネット(14.180MHz)をワッチしていましたが、中国とは相互運用の取り決めがないため残念ながら電波の発射はかないません。悶々とする周さんを慰めるために歓迎会を兼ねた伊豆のドライブに誘いました。

桜が満開の頃、笠原さんの体調も安定して外出が可能と夫人(ex JA1CLM)から聞いて、伊豆のドライブに誘いました。東京・練馬に笠原さんを迎えに行き、いつもと変わらない様子に一安心、その足で三鷹の娘さん宅にまわり周さんと合流しました。車は東名高速道から小田原厚木道路を経由して伊豆半島の伊東市へ。笠原さんが中国語で「私の中国語はどうですか、わかりますか?」と話しかけると、周さんが「笠原さんの北京語はとてもお上手です」と、皆に分かるように英語で応じて語学教室のような雰囲気になりました。
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左からJA1FUY ex JA1AYC BA1CY JA1CVF ex JA1CLN JJ1HKS

伊東のリゾートホテルに仲間が集ってきてにぎやかになりました。記念写真を撮りあいQSLカードを交換する中、JA1ZNG(当時・モービルハムアマチュア無線クラブ)の無線設備を部屋に運び込みシャックをこしらえました。アンテナは14MHzと21MHzのツェップを張って同軸ケーブルを室内に引き込み、オペレートは食後の楽しみとしました。
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JA1CLN 笠原さん(1995年春、伊東のリゾートホテルで)

シャンパンで乾杯して和やかな夕食会が始まりました。周さんと笠原さん、それに松本正雄さん(当時・JARL理事、JA1AYC)、川島さん(当時・神奈川県支部長、JJ1HKS)、岡田さん(MH筆者、JA1CVF)、MH編集者2人の7人です。日本語・英語・中国語が飛び交うにぎやかなひと時でした。夕食の後は一部屋に集り、おしゃべりに興じました。誰かが「マジックを見せて」と笠原さんにせがみました。国際課長に就任早々、ニュージランドのオークランドでIARU第3地域総会に参加した時に、さようならパーティーで居並ぶ各国代表団員を前にしてマジックを披露しました。ジョークをまじえた流暢な英語に拍手喝采を浴び、愛称のケーシー・コールが沸きあがり、会場が大いに盛り上がったのことが思い出されます。

マジックのリクエストを待っていたかのように、立ち上がり意味ありげに片目を瞑って上着のポケットに手を入れて取り出したのは一本の白いロープでした。鮮やかな手つきで切ってはつなぐ妙技を披露しました。アマチュア仲間6人のための独演会です。 にこやかな笑みを絶やさずカードの演技に進みます。間近に見ていてもマジックのタネは全く分かりません。オークランドでのさようならパーティーの再現でした。

それから数ヵ月後、笠原さんの訃報が届きました。お悔やみに行って敬虔なキリスト教徒だったとはじめて知りました。日曜日は必ず教会で神父さんの説教を熱心に聞いていたといいます。病院で亡くなる前日、医師を呼んで別れを告げ、神父と一緒に旅立ちの聖歌を唄い「幸せな人生だった」と感謝の気持ちを伝えました。夫人が見守る中、明け方に永遠の眠りにつきました。葬儀の挨拶の中で「遺言により大学病院へ献体した」と子息から披露されて、参列者は大いなる感動に包まれました。

自作全盛時代のアマチュア無線家達の間では『不用になった無線機/パーツ類は特別に高価なものを除いて、熱心な後輩・入門者の研究・自作援助用に提供するのが真のアマチュアOM精神』という風潮がありました。そんな旧き良き時代のアマチュア無線を想い出させるように、人生の最後に身を呈して伝統的アマチュア精神を貫かれた笠原さんの見事なまでの身の処し方に、誰にでもなれる心境ではないと強い衝撃と感銘を受けました。

【才気あふれるアイデア・マン:JA1AYC】(1938-2003)
ハムフェアの開会式に参列するIARUや隣国の代表団に配慮して英語を交えながらの名司会ぶりが際立つ松本さんですが、JARLでは神奈川県の評議員、支部長、常任理事などを務めて後進の育成に熱心でした。その松本さんが「電通社友会会報」No.74(2000・March)に「ハムライフ半世紀」と題した自身の半生を綴っています。
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J2002年JARL75周年パーティーでW5JBP(右)を紹介するJA1AYC

「お定まりのラジオ少年からスタートして、気がついてみたらもう半世紀近くもCQ、CQと叫んできた計算になります。いまのようにハイテクの無線機が無かった時代にはアルミの板を曲げてケースを作り、それに部品を取り付けるといった、すべて自作の送信機、受信機、そして銅線を伸ばしたアンテナだけでしたが、それでも知らない土地までトイレの電球を灯すくらいの小さな電力で自分の電波が届くことに最高の喜びを感じたものです。

いまでは国内ばかりでなく世界が舞台です。海外旅行の際にも声やトンツーで知り合った友人に会うのも楽しみの一つになりました。イタリア旅行の時などは、帰国前夜の深夜に連れ出され、郊外の町まで行ってアイボールQSO(アイボールは目の玉で、QSOは交信の略語、つまり、じかに会うことの意)を楽しんだりもしました。
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イタリア(ミラノ郊外)のハムを訪ねたJA1AYC

最近は日本中の市町村を追いかけたりしていますが、市はまだしも町村となると3,000近くもあってなかなか手ごわいのです。同じようにアメリカのカウンティ(郡)も3,000以上あって、こちらは更に難物ですが、なにか目標があると知らず知らず血が騒ぐのです。アマチュア無線関連の本はマニュアル本を含め3冊出版することができました。関連の雑誌には毎月連載でもう25年近く続いています。インターネット時代に何を今更と思われるかもしれませんが、「未知との遭遇」、これが永遠のテーマです。」

松本さんは『アマチュア無線運用マニュアル』電波新聞社、『リグ談義』『QSOのテクニック』電波実験社の三冊の著作があり、2004年12月3日「世界一万局よみうりアワード」世界第60号を受賞しました。また、ライフワークのDiscover Ham LifeはこちらのWEBサイトでご覧になれます。

松本さんがハムフェアで米国人ハムの講演を手早く分かりやすく通訳して喝采を浴びたことが、昨日のことのように思い出されます。早大在学中に通訳ガイド(1959-1961)で磨いた熟達の英会話力、電通時代(1961-1998)に培われたクリエーター(広告制作者)としてのワザが後進の指導に遺憾なく発揮されました。2002年11月15日、激しい腰痛を押してJARL75周年の式典に駆けつけたIARU、ARRLら来賓の接待が最後の仕事になりました。2003年2月の検査入院からすい臓がんと診断され、治療の甲斐なく同年6月27日、帰らぬ人となりました。享年65歳。

【あとがき】
KDDで欧州や南米など外国勤務が長い笠原さん、電通で海外渡航経験40カ国以上の松本さん、奇しくも才気煥発な二人の国際人をそれぞれ1996年(73歳)、2003年(65歳)に、まだまだこれからという矢先にサイレント・キーになりました。昭和30年代から平成にかけて、アマチュア無線の黄金期に輝き、駆け抜けた2人のOMを長く記憶にとどめたいと思い本稿をまとめました。


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