[非常通信]

係官はやむなくコールをいわなければ続けていいと許可してくれ、その後3日間非常通信を続けた。通信中、妨害する局があると堀口文雄(J5CC)さん、河野正一(J3CX)さんなどが注意してくれた。堀口さんは本州の南端である鹿児島からであるが、信じられないほどの大出力の無線設備をもっていた人である。また、河野さんはかって、札幌に転勤して居住したこともあり、藤縣さんに無線機を譲ったハムであることは先に触れた。

余談であるが、この通信中に田母上さんのケミレクのフォーミング皮膜が不能になり、1時間近く送信を停止せざるをえなくなった。この様子を傍受していた英国大使館のチャップマン(G5BM)さんが、後にUX80管に相当するマルコーニ製の1687整流管を贈ってくれた。「国境を越えた協力と厚意には涙がでるほどうれしかった」と田母上さんは書いている。

ケミレク(電解整流器)は、昭和初期に盛んに使われた。JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より

この時、橋本さんは無線機をもって函館に移動、田母上さんに現地の情報を送り続けたという。当時、移動運用は認められていなかったために、後日通信局から厳しく注意された。一方の田母上さんの侵した時間外通信については関係者の懇請もあり、始末書のみで済み、加えて内務大臣より表彰状と50円を贈られている。50円は当時としては大金だったという。

[免許が許されなかった]

昭和12年(1937年)、日中戦争が始まり、引き続いて太平洋戦争に突入していく。その時局の変転に翻弄されて、ハムへの道を閉ざされてしまった人も少なくない。北海道では千葉憲一さんもその一人である。千葉さんは八雲町出身。東京の無線学校(無線通信講習所と思われる)に進学、卒業しもうすぐ入隊という時期に体をこわして北海道に帰り、札幌師範学校に入る。

教職の勉強をする傍ら、昭和14年(1939年)4月に免許申請する。電気通信術と無線工学の試験を受けた後、試験官も「良いだろう。免許は8月頃になるだろう」といってくれ、楽しみにその日を待っていた。その間、橋本さんの指導を受けながら部品を集めて送受信機を作り始め、ほぼ完成していた。

ところが、12月になって申請書類一式が返送されてきて「実験局は審議しないことになリましたので、申請書類は返却します」という文書が入っていた。戦時体制に向けての行政の転換であった。もっとも、この頃、地域によっては昭和15年(1940年)でも免許を発給しているが、その多くは軍に必要な実験や研究に関係する場合だったようだ。

昭和30年代、生徒にアマチュア無線の楽しさを話す千葉さん

戦時色が強まるにともない、ハム達も徐々に戦争に引きこまれていく。橋本さんは北海道に残ったが、河野、伊藤、近江谷、妹尾さんらは、日本放送協会から中国の放送局建設のために中国に軍属として交互に出掛けた。直井さんは先に触れたが船舶通信士として輸送船にも勤務した。田母上さんは松下無線(現松下電器産業)東京研究所に勤務、コールサインはJ2PSに変った。

[MARLの発足]

松下無線勤務の田母上さんはある日、突然に満州・新京市への出張を命ぜられる。同市に研究所を設立するための準備と、軍用無線機の移動実験距離試験のためであった。満州での田母上さんの活躍は目覚しかった。昭和12年12月には満州国アマチュア連盟(MARL)を発足させることになり、満州に在住する日本のハム達が集まった。

会長に小澤匡四郎(MX1A)さん、幹事に松井義正(MX3A)さんと田母上さんが選ばれたが、MARLは内地(当時占領した地域では日本をこう呼んだ)に制約されないアマチュア無線活動にしようと計画した。実験局ではなくアマチュア局とすること、運用時間は常時とすること、入力は1KW(当時は出力の測定は不可能であった)までとすること、の3条件を認めてもらうことであった。

満州国の通信省に相当する交通部はこの要求を理解し、欧米並のアマチュア無線の環境ができあがった。MARLはコールエリアとしてMX1からMX6までを作り上げた。次いで、IARL(国際アマチュア無線連盟)への加入である。IARLに問い合せると満州にもアマチュア無線局があるのかという返事。「あるかないか来てみたらどうか」と提案すると「招待ならば行ってもよい」ということになった。MARLに金がないことから政府に依頼することになり、その役割が田母上さんに回ってきた。

田母上さんは「王永昌・外交院(外務省)大臣に恐る恐る会見を申し込み、事情を逐一話し何とかならないものかと陳情した」大臣は次長や関係局長と協議した結果「招待費は全部引き受けるから招きなさい」という。この後、田母上さんは図に乗って「QSLカード゛が国際親善に大いに役立っている」と話し始めた。