エレクトロニクス立国の源流を探る
No.82 日本のエレクトロニクスを支えた技術「ビデオカメラ&デジカメ」第13回
一眼レフカメラでなく中級機にAFを採用したことが成功へ
1977年に発売された世界初の市販AFカメラ"ジャスピンコニカ"「C35AF」が成功した理由は何だったのだろうか、理由は3つある。1つは高級機でなく中級機にAFを採用したことで、「高級機でないとコスト的に無理」との常識にとらわれなかったことである。高級機ユーザーは、カメラの扱いに長けており、それほどピント合わせに苦労していなかった。むしろ中級機、低価格機の主なユーザーである、初心者や主婦、老人などがピント合わせに苦労しなくてすむAFカメラを必要としていたからだ。
そして2番目は、一眼レフカメラでなかったことである。一眼レフカメラは、マニュアル操作で自分ならではの表現意図を持った写真を撮りたいというユーザーが主に使っていた。狙った被写体以外はむしろピントを外して、ボケ味を出すことで被写体を強調する技法がよく使われていた。余談だが、この日本発祥の技法は「Bokeh(ボケ)」として外国でも使われるようになっていると言う。
そして、3番目は同社がすでに発売していた"ピッカリコニカ"でエレクトロフラッシュ(ストロボ)を採用していたことである。暗い場所での撮影では光量が少なくAF撮影も難しくなるが、ストロボを使えば絞りをそれほど開けなくても良くAF撮影も楽になる。絞りを大きく開けると被写界深度が浅くなり、AF精度も高くしなければならない。しかし、初期のAF技術では高精度なAF機能にするには、まだ技術開発に時間を要した。これら3つの理由が、"ジャスピンコニカ"成功の要因だった。
一眼レフカメラへのAF機能搭載の試行錯誤も続いていた
では、一眼レフカメラにおけるAF機能の搭載はどうだったのか。プロカメラマンやハイアマチュアカメラマンにとって「AF機能はあまり必要ない」と言う意見がカメラ業界に多かったのは事実だろう。なぜなら「ファインダーでピントを確認して撮影するのだから、ピント合わせには苦労しない」という考えである。しかし、もし正確なAF機能が搭載されたならば、ベテラン一眼レフカメラユーザーといえども撮影には非常に便利になる。なぜなら、何か突発的なシャッターチャンスに遭遇した場合などでは、瞬時にピントを合わせてくれるAF機能があれば絶好のシャッターチャンスを逃がさずに済むのだから。
こうした可能性を考慮して、一眼レフカメラにおけるAF機能の搭載は、ニコンやキヤノンを始めカメラメーカー各社が試作機を発表するなど積極的に進めていた。そして、世界で始めて市販されたAF一眼レフカメラは、1981年発売のリコー"スクープアイ"「リコーXR6」だった。それは交換レンズ(AFリケノン50mm)側に、測距と自動焦点機能を持つセット販売だった。また同年にペンタックスMEとペンタックスAFズーム35-70mmのセットが発売されている。カメラ側にTTLフォーカスセンサーがあり、レンズ側にあるサーボモーターに信号を送り、ピントを合わせる。また、オリンパスも同じ方式の「オリンパスOM30」とAFレンズをセット販売している。しかし、いずれもヒット商品とはならなかった。
AF一眼レフカメラ「ミノルタα-7000」発売がカメラ業界に衝撃を
そうした中で登場したのが、1985年2月に発売されたAF一眼レフカメラ「ミノルタα-7000」だった。実質的にAF一眼レフカメラ時代の幕を開けたのは、この「ミノルタα-7000」からだと言える。実は一眼レフカメラ市場は、1980年の125万台をピークに、1981年は105万台、1982年に85万台、1983年に51万台へと急速に需要が低迷して行った。1977年に発売された"ジャスピンコニカ"をはじめとする高性能、低価格、簡単操作のAFコンパクトカメラに需要を奪われつつあったのである。
ミノルタには、一眼レフカメラで「X-700」という主力機種が有ったが、ニコンやキヤノンの一眼レフカメラと比べて人気が今一だった。同社では、開発陣が販売店に出向いて市場の声を調査する伝統があり、技術者が出向い見るとカメラ店主から「君のところの一眼レフカメラどうして売れんのや?」と言われた。ならば技術者が、自分が売ってやろうと来客に勧めても、やはり売れなかった。海外では、それなりに売れているのに国内ではなぜ売れないのか? 技術陣は「売れないのは、うちの営業力が弱いからだ」と思い込んでいたが、自分が店頭に立ってみて、そうでもない事が身にしみて分かったと言う。
ブランド志向が強い一眼レフカメラユーザー
一眼レフカメラは、ユーザーのブランド志向が強く「俺はキヤノンでなければダメ」、「私はずっとニコンで来ている」など言った声があるのも事実。しかし、「それが絶対的な売れない理由にならない」はずである、「消費者が欲しがるような一眼レフカメラが作れれば必ず売れる」との信念から、「X-700」に続く一眼レフカメラ商品化を目指していくことになった。
その頃、数社が発売していたAF一眼レフカメラは、さっぱり売れなかった。ほとんどが「レンズ完結型オートフォーカス」を採用していた。レンズ部分にAF機構を搭載していたので、とてつもなく大きく重たいレンズとなり、使い勝手が非常に悪かったからである。そこでミノルタの技術陣は、一気にカメラ市場で巻き返すには、より使いやすいAF一眼レフカメラを開発しなければならないとの結論に達した。そして次世代のAF一眼レフカメラ開発プロジェクト「9070」がスタートした。
レンズマウント変更という社運がかかる大きな賭けに経営陣に迷いが
「レンズ完結型オートフォーカス」ではなく、カメラ本体内にAF機構を内蔵させ、交換レンズを大きく、重くせずに、操作性に優れた使い勝手の良いカメラにすることが目標となった。しかし、それは従来からのレンズマウントを変更することを意味し、ユーザーが長年使用してきた交換レンズが使えなくなる。レンズマウント変更ということは、一眼レフカメラメーカーにとって、もし失敗すれば会社の存続さえ危うくする賭けとなる。当然ながら、経営陣からは「レンズマウントを変更せずにもっと優れたAFができないのか」と言う声が出てくる。
「他社のAF一眼レフカメラも売れていないのだし、AFの必要性があるのか」、「AFでなくてももっと売れる一眼レフカメラが作れるはずだ」と言った社内の反対意見も多く、AF論議は社内を二分した。また、「マニアが使う一眼レフにAF機能を入れても喜ぶはずがない。そんな事よりブランドイメージを高める方が得だ」などの声もあってキヤノンやニコンに追い着くにはブランドイメージアップの方が大切とAF反対論者も多かった。
だが、一眼レフカメラが低迷している原因には、「大きい」「重たい」「高い」「操作が難しい」の4悪があると技術陣は見ていた。ならば4つの悪を解決すれば一眼レフカメラ需要はきっと復活する。一眼レフカメラ市場を復活させ、パイを大きくしてシェアも伸ばす、そのための魅力あるAF一眼レフカメラが明確な開発目標となった。そのためにはレンズマウント変更もあり、との結論となった。幸い、AF実現のために必要な8ビットマイコン(CPU)が登場し、高度な計算と制御が可能となりつつあった。
さらに、AFに適したシャッターの開発でもしっかりとした技術があった。シャッターは高速で動かすほど「止める」と言うことが難しくなる。高速で動かすと慣性力も非常に大きくなる。シャッターを止める時に振動が起きブレの原因となる。従って、慣性が小さく、かつ強靭なシャッターでなければならない。もう一つファインダーが明るく見やすくなければ使いづらい。幸いミノルタでは、すでに明るくピントも合わせやすいファインダーが開発されていた。
ミノルタをAF一眼レフカメラのトップメーカーへと押し上げた「α-7000」
こうした基礎技術を背景に、マイコンを採用した位相差方式のAF機構の開発を目指した「Yプロジェクト」がスタートした。当時、米国のハネウェルが開発した位相差方式のTCLと呼ばれたAF技術があった。研究を進めて行くうちに、ピントが合うまでの時間とレンズの明るさへの制約が、ミノルタが目指しているAF機能とは、まだかけ離れていることが分かった。そのため、より高速でAF機能を動作させる技術開発が続けられた。そして完成したのが、これまでとは一線を画したAF機能搭載の画期的なAF一眼レフカメラ「α-7000」だった。新しくαマウントを採用し、機能、感触、使い勝手ともに優れたAF一眼レフカメラが完成した。新製品発表とともにマスコミやカメラ愛好家の間で、大きな反響を呼びミノルタをAF一眼レフカメラのトップメーカーへと押し上げた。
ミノルタAF一眼レフカメラ「α-7000」
参考資料:「匠の時代」(内橋克人著講談社文庫)、コニカミノルタホールディングスHP、キヤノンHP、ニコンHP、エプソンHP、富士フイルムHP、カシオ計算機HP、ソニーHP、ソニー歴史資料館、東芝HP、パナソニックHP、シャープHP、JEITA・HP、他