様々なタイプのレコード盤が登場、用途によって使い分けされる

30cmのLP盤に続いて同じ33 1/3回転/分で、17cmのコンパクトなレコードが登場、コンパクト盤と呼ばれた。しかし、LP盤の内周部分にあたる部分を使うだけに線速度が遅くなり音質は当然劣ってしまう。また、17cmで45回転/分のより手軽なEP盤と呼ばれるレコードが登場し、線速度が速い分だけ音質も良く、ポピューラー音楽を中心に普及して行く。クラシック音楽や、多数曲を収録したアルバムにはLP盤を、1〜2曲の短い音楽を収録するにはEP盤と、使い分けられて行った。

ややこしいのは、日本では17cmレコードは、皆EP盤と呼ばれ海外とは異なった呼ばれ方をされた。また、17cmで45回転/分のEP盤は、45回転レコード、ドーナツ盤、シングルレコードなどとも呼ばれ、その後、普及するオートチェンジャーを搭載したジュークボックスなどに利用されて行った。中心の穴がLPより大きいドーナツ盤は、オートチェンジャー向きではあったが、一般のユーザーが使うレコードプレーヤーには、アダプターが用意されLP盤と同じように小さな穴に変換して再生するようになっていた。

アメリカレコード協会が周波数特性RIAAカーブを規格統一

長い間続いたSPレコード時代は、LPレコードやEPレコードの登場によって終わりを迎えた。そして、より良い音で音楽を聴くことが出来るLPレコードやEPレコードは、Hi-Fiへの追求を加速させた。Hi-Fi化で先行していた米国では、レコードメーカー各社が録音時に、高音域上げる一方、低音域を下げる周波数特性をもたせていた。これは、高音域ではノイズが目立ちやすく、低音域は狭いグルーブ間隔でも隣のグルーブに影響を与えないようにするためだった。再生時には、この逆の周波数特性を持つ増幅器で補正することで、フラットな周波数での録音特性に比べてノイズが少なく、よりHi-Fi化が可能だったからである。

しかし、レコードメーカー各社が独自の周波数特性を持たせたレコードを発売したため、ユーザーは再生時にその録音された周波数特性に、いちいち合わせて再生しなければならなくなった。このため、1952年にアメリカレコード協会(RIAA)が設立され、レコード技術の標準化が進められた。そして、1954年にRCAが開発したLPレコードやEPレコード用の録音・再生の周波数特性をRIAAカーブとして規格を統一した。以後、レコードメーカー各社はこのRIAAカーブを採用したレコードを発売しユーザーの負担は無くなった。そして、日本では1956年にこのRIAAカーブをJIS規格として採用している。

第二次世界大戦勃発がレコード産業に大きな影響をもたらす

第二次世界大戦前は、レコード盤や蓄音器で技術的にも普及面でも進んでいたのはアメリカやヨーロッパのドイツ、フランスなどで、日本では米国コロムビアや米国ビクターなどと提携したり、技術支援を受けたりしていた。しかし、1939年に勃発した第二次世界大戦や1941年に起きた真珠湾攻撃からの太平洋戦争が、その関係を一変させた。そして、戦後、日本では様々なレコードメーカーや電蓄メーカーが誕生することになる。真空管を始めとするエレクトロニクス技術は、軍事技術として発達したものが多いが、戦後、平和となり民生用として利用された技術も多い。また、戦後、日・欧・米のレコード会社間で新たな提携関係が結ばれていった。

日本初のレコード会社として創業した日本蓄音機商会(日本コロムビア)

海外のレコード会社と日本のレコード会社の提携関係を見ると、日本コロムビアは、1910年に日本初のレコード会社として創業した日本蓄音機商会がその前身である。米国コロムビアと提携し、レコードや蓄音機の技術を受けていた。戦後、日本コロムビアと社名を変え、歌謡曲などのレコードを発売している。やがて、美空ひばりや島倉千代子、石川さゆりをはじめとする人気歌手が所属する我が国を代表するレコードメーカーとなった。そして1947年には日本電気音響(DENON)を傘下に収めカートリッジを発売、さらにはオーディオ製品へ進出しソフト、ハードのいずれも扱う総合音楽企業として活躍した。また、同社は日立製作所が筆頭株主で日立グループに入っていたが、後に日立グループからは離れている。また、DENONは、その後、分社化。現在は、デノンブランドで高級オーディオ機器を専門とするメーカーとなっている。

1927年には日本ビクターが設立される

一方、日本ビクターは、1927年に米国ビクタートーキングカンパニーの日本法人として設立されたのがスタート。1929年には親会社の米国ビクタートーキングカンパニーがRCAに合併されたことによって親会社はRCAビクターとなった。ラジオなどエレクトロニクス技術を持つRCAビクターが親会社となったことで、オーディオ機器への足掛りをつかんだ。その後、RCAは日産コンツェルンに株式を譲渡したため、社名のビクターや犬のマークの日本での使用権を譲り受けた。さらに、東京電気(現・東芝)が日産コンツェルンの株式を取得したことにより東芝傘下となった。しかし、太平洋戦争によってスタジオやレコード工場が焼失、労働争議などもあり事業はうまく行かず、親会社も東芝から日本興業銀行となった。

その後、1946年に松下電器産業(現・パナソニック)と提携し、松下電器産業グループに入った。やがて同社は、レコード産業以外にもテレビ、VHSビデオ、オーディオ機器の開発で成果を挙げ、有力な総合エレクトロニクスメーカーへと躍進する。しかし、業績が悪化するとともに松下電器産業の連結子会社から外れ、ケンウッドとの共同持ち株会社「JVCケンウッド」となる。日本ビクターと言えば松下電器産業の子会社だったと言うイメージが強いが、一時期、東芝の子会社だったことはあまり知られていないようだ。

参考資料:JAS journal(日本オーディオ協会編)、日本ビクター60年史、ソニーHP、ソニー歴史資料館、パナソニックHP、JEITA・HP、東芝HP、東芝未来科学館、他