ワイヤーレコーダーの商品化をスタート

NHK以外にも販路を広げていく必要があると考えていた井深さんと盛田さんは、ワイヤーレコーダーに目をつけた。当時は、まだ録音して楽しむといったことは無い時代であったが、やがて経済が復興してくれば一般大衆に普及するだろうと考えた。そのころ録音機としてワイヤーを使ったものがアメリカで市販されていた。また、日本では戦時中、日本電気が作ったものを陸軍が使っていた。井深さんは、それを手に入れることができたので中身を分解して研究することになった。一方、盛田さんはより高性能なウエブスター社のワイヤーレコーダーのキットを入手してきた。

ワイヤーレコーダーの開発には木原信敏さん(現ソニー木原研究所社長)が任された。実は、木原さんは井深さんが早稲田大学専門部機械化で電気関係のことを教えていた時の学生の一人だった。機械専門だった木原さんだが、求人広告を見て「東京通信工業は井深さんがやっているのか」と、冷やかし半分で入社試験(面接だけ)にやってきたのだった。その木原さんがワイヤーレコーダーの開発担当となる。

ワイヤーレコーダーからテープレコーダーへ

機械専門だった木原さんだが電気にも精通していた。ラジオやアンプの組み立てはお手のもので、ワイヤーレコーダーのキットは駆動部分だけだったため、アンプや回路部分は木原さんが作った。ワイヤーレコーダーの開発を行なっていた木原さんは「NHKでテープレコーダーを見てきたけどワイヤーレコーダーよりずっといい音がしていたよ。テープレコーダーの研究をしてみないか」と、井深さんから声をかけられた。

井深さんから聞いた内容は、幅6ミリほどの、表面が茶色のテープがリールに巻いてあり、それを巻き取って音を記録再生していたということだった。それだけの情報だったが、「テープ表面には磁性体が塗ってあるな」と木原さんはピンときた。そこで磁気テープ作りから始めることになり磁性粉探しからスタートした。早速、井深さんが持ってきたOPマグネットというスピーカーに使う磁石をすり鉢ですりつぶして、紙テープに塗って作った。しかし、試験機からは「ザーザー」というノイズしか出ない。この磁石では磁性が強すぎて使えないことが分かった。

盛田さん、木原さんが蓚酸第二鉄探しに駆け回る

磁石について調べようとしていた木原さんは、会社の本棚にあった「磁石」という本多光太郎先生の本を見つけた。本の中に「蓚酸(しゅうさん)第二鉄の黄色い粉末を乾溜して水と炭酸ガスを取り去った茶色い粉末が“ガンマ・ヘタイト”で、ガラス管に詰めて突き固めると棒磁石が作れる」と書いてあった。これは実験する価値があると思った木原さんは「蓚酸第二鉄を購入したい」と申し出ると、盛田さんが「神田の薬品問屋を知っているので、すぐ行ってみよう」と言ってくれた。二人で何軒か探し回ってやっと蓚酸第二鉄を手に入れることができた。「戦後の焼け野原の東京でこんな特殊な薬品を手に入れることができたのは本当に幸運だった」と木原さんは後に振り返っている。

盛田昭夫氏

フライパンとしゃもじを借りて"ガンマ・ヘタイト"作り

蓚酸第二鉄を手に入れたといっても、乾溜する設備があるわけではない。そこで炊事場からフライパンとしゃもじを借りてきて煎って作るといった、まるで料理人のようなことをやった。「茶色から黒に変わるところで止めて、一丁あがり」という職人芸だったという。出来上がった粉をテープに塗る方法も手探りだった。筆で塗ると表面がざらざらになりきれいに塗装できなかった。そこで建設中の工場で塗装工がスプレーガンを使っているのを見た木原さんは「これだ」と、早速、道具一式を買って吹き付けてみた。何度かやっている内にキレイに塗装できるようになり、音も少し良くなってきた。まだ、ノイズがあるので表面をスプーンでこすって仕上げるとつるつるになった。そして、そのテープで「本日は晴天なり」という木原さんのきれいな声が再生できるようになった。

苦心の末、試作第1号機が完成

とりあえずテープはできた。次にヘッドやメカ部分の開発が必要となった。NHKがテープレコーダーを購入したということを聞き、早速、見学に行った。それは背の高さほどある機械だったが、子細に観察でき大変参考になったという。テープ駆動方式は予想していた通りフリクション駆動のキャプスタン・ピンローラー方式だった。翌日には、図面を書き上げ試作にとりかかった。試作第1号機ができたが、テープを切らないように回転を止めたり、速送り・巻き戻ししたりするにはブレーキ加減が難しく、安定したテープ走行にも苦労した。安定したテープ走行はヒステリシス・シンクロナスモーターを採用することで解決するなど、何とか商品化にこぎつけた。井深さんがNHKで見学してからわずか半年後という早さだった。

期待に反してさっぱり売りないG型

これなら売れるだろうと期待したものの、さっぱり売れない。「これは凄い」「おもしろい」との反応はあるのだが、「買おう」という人がいない。それもそのはず、売り出した「G型」は重さ40kg以上もあり、16万円もする高価なものだった。「G型」のGはGovernmentか名付けたもの。井深さんは「あんな大きなものでは売れん、もっとポータブルなものにすれば必ず売れる」と、木原さんを中心とする開発チームを組んだ。

開発は熱海の温泉旅館に缶詰状態で「完成しないうちは帰ってきちゃいかん」との厳命が下された。今でもソニーで語り継がれている「熱海の缶詰事件」である。しかし、これは開発チームが、何事にも惑わされること無く開発に専念できるようにとの井深さんの心遣いだった。そして、開発に専念できた木原さん達はわずか1週間で試作品を完成させた。それが昭和26年3月に発売した「H型」で、HはHome(家庭)からとったもの。

予想以上の売れ行きとなったH型

販売方法も変えた。もの珍しさを訴えるのでなくテープレコーダーを教材として売ることだった。そのころ視聴覚教育の必要性がさけばれていたこともあってこの「H型」は予想以上の売れ行きとなった。井深さんは、自分たちの予想が外れていないことを確信したのだった。そして技術者たちの自信にもなり、また販売方法がいかに重要かを知らされたのだった。このテープレコーダーの成功が後のソニー発展の基礎を作った。

ソニーテープレコーダーH型


『参考文献』 Web:ソニーヒストリー、「本田宗一郎と井深大」(板谷敏弘、益田茂著)、「ソニー技術の秘密」(木原信敏著)