エレクトロニクス立国の源流を探る
No.13 小さな町工場を世界のSONYに育て上げた井深大さん(第2回)
ラジオの修理と改造が予想以上の人気を呼ぶ
1945年(昭和20年)9月、井深さんは疎開先の長野から新会社設立のために上京した。東京は焼け野原だったが、焼け残っていた日本橋の白木屋(現東急百貨店)3階の電話交換台のあった小さな部屋を借りることが出来た。空襲で窓ガラスは割れ、周りの壁はひび割れしている吹きさらしの粗末な部屋だったが、そこに「東京通信研究所」の看板を掲げたのだが、技術はあってもやることが無い。まだ、敗戦直後で食うや食わずの混乱期だけに商品開発のめどが立たない。それでも会社を存続させていくためには何か仕事を見つけなければならなかった。
そこで井深さんが思いついたのはラジオの修理と改造だった。当時のラジオは壊れやすく、戦争中に壊れたラジオもたくさんあったので、これはいけるだろうと考えた。また、敵の放送を聞けないように短波を受信できないように改造したラジオもたくさんあった。娯楽の少ない敗戦直後だけに、ラジオ放送は国民にとって一番の娯楽であり、重要な情報源であった。井深さん達は壊れたラジオの修理や、短波受信用のコンバーターを取り付ける仕事を始めた。これが予想以上の人気を呼び、壊れたラジオを持ち込んでくる人が大勢訪れた。
朝日新聞のコラム「青鉛筆」が盛田さんとの再会のきっかけに
こうした井深さん達の仕事ぶりが朝日新聞のコラム「青鉛筆」で紹介されたこともあって、ますますお客さんが増えた。戦前は計測器などを事業者、軍、官庁に納めており、一般消費者と直接顔を合わせての商売ではなかった。それだけに修理したラジオを喜んで持って帰る顔を見ると何ともいえない感動をおぼえたという。さらに、思いがけないことが起こる。終戦とともに実家のある愛知県に戻っていた盛田さんが、たまたま朝日新聞に目を通しているうちに「青鉛筆」で井深さんが紹介されているのを見つけたのだった。井深さんとは音信不通になっていた盛田さんだが、早速、井深さんに手紙を出した。井深さんから上京して仕事を手伝って欲しいという返事があり、すでに東京工業大学の講師になることが決まっていたこともあって、すぐに東京に出かけ井深さんと会った。再会した井深さんと盛田さんの交際が始まった。
第1号の電気炊飯器の商品化には失敗
壊れたラジオの修理でとりあえずは会社存続のめどがついた井深さんたちが次に手がけたのが電気炊飯器だった。お客さんの喜ぶ顔か見たいということ、そして日常生活に必要なものをという思いから電気炊飯器を作るということになった。戦後の資材の無い時期だけに電気炊飯器を作るといっても部品が無い。そこで考えたのは、木製の桶の底にアルミ電極を貼っただけのものだった。水があるうちは電気が流れ加熱され、水分が蒸発するにつれ電流が少なくなり過熱が弱まり、炊き上がる頃には電流も流れなくなるという原理の炊飯器である。余談だが、この原理を応用した電気パン焼器もどこかが開発したようである。だが、火力が弱く、水加減も難しい炊飯器であり、また当時は電圧が不安定だったこともあって、一般消費者向けに販売するには無理だった。これが井深さんたちの記念すべき失敗作第1号ということになる。電気炊飯器の商品化には失敗したものの、この頃には日本測定器以来手がけていた真空管電圧計が官庁向けに売れ出した。
失敗作第1号となった電気炊飯器(ソニー提供)
井深さんと盛田さんがソニーの前身「東京通信工業」を設立
真空管電圧計が売れ出したこともあって、仕事は忙しくなってきた。しかし、政府はインフレ抑制対策として流通する紙幣(旧円)を強制的に銀行に預け入れさせ、新円に切り替えるとともに、銀行からの新円の引出額を制限した。真空管電圧計を官庁に売っても旧円で支払われるため会社の資金繰りが悪くなる。何とか民間向けの事業を拡大して新円を稼ぐ必要性に迫られていた。再会以来、交友を深めていた井深さんと盛田さんは、この事態を打開するために共同で増資して新会社を作ることにした。これがソニーの前身である「東京通信工業」である。
小さな会社でも出来る「人のやらないことをやろう」
1946年(昭和21年)5月7日、新会社「東京通信工業」は、資本金19万円、従業員数20名で設立された。社長には文部大臣を務めたこともある井深さんの義父の前田多門さんになってもらい、井深さんが専務、盛田さんが取締役ということになった。新会社は、たいした機械設備も無い、お金も無い、あるのは自分たちの頭脳と技術、それにチャレンジ精神である。それでも前回紹介した「設立趣意書」に謳っている通り、いたずらに規模の大きさを求めず、小さな会社でも出来る「人のやらないことをやろう」という方針だったので、皆で力を合わせてがんばろうという気概にあふれていた。
部品や組み立て用工具を自分たちで作る
「東京通信工業」設立の翌日、井深さんたちが逓信省に挨拶に行った時に、思いがけず真空管電圧計50台の注文をもらった。しかし、50台分の真空管を集めようとしてもすぐ手に入らない。あちこちの闇屋を回ったり、秋葉原で軍の放出品を探したり四方八方探しまくったが、まともな規格品が少なく大変な苦労があった。そして真空管を集めても、こんどはコイルなどの部品や、組み立てに使う工具が無い。そこで工具はすべて自分たちで作り、コイルも自分たちで線材を集めて巻くといった具合だった。そんなもの作りの苦労も「金策の苦労に比べれば、苦労といえるほどではなかった」と資金繰りを任されていた盛田さんは後に語っている。
次々と新円かせぎ商品を売り出す
資金難を何とかするには、新円かせぎが必要となったため「電気炊飯器」の次に考えたのが、「電気ざぶとん」や「ピックアップ」、「拡声器」などだった。「電気ざぶとん」は、井深さんが考案したもので、2枚の美濃紙の間にニクロム線を挟んで糊付けし、これをレザークロスで覆っただけのものだった。これが寒い冬を乗り切る商品として良く売れ、新円かせぎに役立った。しかし、現在の電気コタツや電気カーペットなら必ずあるサーモスタットやセンサーなどが無い、ちょっと恐ろしいもの。そんな商品だけに、さすがに「東京通信工業」の名前で売ることができず、井深さんが考えた“銀座ネッスル(熱する)商会”という名を付けて売り出した。幸い火事にはならなかったものの、毛布や布団が焦げたという苦情が多かったという。今なら、完全にリコールとなる商品だった。
電気ざぶとん(ソニー提供)
「ピックアップ」「拡声器」は人気商品に
そんな「電気ざぶとん」に比べ「ピックアップ」は、もっとまともな商品だった。「ピックアップ」は、戦時中はぜいたく品として禁制品となっていた。戦後の娯楽の少ない時代だけにラジオやレコードで音楽を聴くことが国民の憧れとなっていた。そこで需要は大きいと見て“クリアボイス”の商品名で売り出した。測定器など無く、勘に頼る手作りだったが「良い音がすると」と、神田や秋葉原で評判になり良く売れた。また、「拡声器」は、盛田さんの義理の弟である岩間和夫さんが開発した商品。大きなスピーカーを装備したもので“パワーメガホン”の商品名で売り出した。国鉄の社内放送や選挙演説用として使われ、これも良く売れた。
自由な闊達な社風の「東京通信工業」
岩間さんは、盛田さんと実家が隣同士で、盛田さんの妹の婚約者だった。盛田さんに請われて設立間もない「東京通信工業」入社したのだが、電気の技術者ではなく東京大学地震研究所に務めていた地球物理学者だった。電気とは無縁の岩間さんが「拡声器」を開発するというのは、岩間さんの能力の高さも凄いが、畑違いの人間に「拡声器」の開発を任せるという自由な社風というか、井深さんの人間性をうかがわせる。その、岩間さんが盛田さんに続いて後のソニーの社長となるのだから運命とは不思議なものだ。
後にソニーの社長になった岩間和夫さん(ソニー提供)
『参考文献』 Web:ソニーヒストリー、「本田宗一郎と井深大」(板谷敏弘、益田茂著)、「ソニー技術の秘密」(木原信敏著)他