[社運をかけたトランジスタ開発]

テープレコーダーで成功した井深さんが次に手がけたのがトランジスタラジオ。アメリカの友人から「ウエスタン・エレクトリック社(WE社)がトランジスタの特許を公開してもよい」と言っているとの情報が来た。井深さんもトランジスタが発明されていたことは雑誌で知っていたが、アマチュア無線に熱中していた頃に使っていた鉱石検波器と構造が似ていたので、それほど関心も無く、あまり使い物にならないだろうと見ていた。

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自社開発のトランジスタとダイオード(ソニー提供)

それでも今回はちょっと事情が違っていた。というのもテープレコーダーの成功で社員数が急激に増えていた。たくさんいる技術屋に何かやらせようと突然ひらめいたのが「トランジスタをやってみよう」ということだった。特許料は約900万円という東通工にとっては過大な金額だった。しかしトランジスタも初期の点接触型から合金型へと進歩を見せており、井深さんは使い物になりそうな気がしていた。盛田さんに相談すると「やるだけの価値は、ありそうですね」と賛成してくれた。

そこで通産省にトランジスタ製造の許可を求めに行ったが「簡単にはトランジスタなんか出来ないよ」とまったく問題にもされなかった。日本の大手電気メーカーでさえ全ての技術を供与してもらう代わりに、商品に対して特許使用料払うを契約を行なっているのに、町工場規模の東通工が特許権を買い取って自社開発によりトランジスタを作ろうというのは無謀だ。高額な特許料を支払い、貴重な日本の外貨を無駄にしたくないと許可が下りなかった。

[可聴周波数帯域にしか使えなかった初期のトランジスタ]

その後、アメリカの知人の山田さんから「代表者が来て契約するなら特許を許可する用意がある」という情報が入った。そこで井深さんは、欧米視察に行くことになっていた盛田さんに契約するよう指示し、通産省に無断で契約してしまった。後日、通産省に認可をもらいに行ったが面子を潰された担当者はカンカンになって井深さんたちを追い返してしまった。仕方なく認可が下りないままトランジスタの研究だけは続けることにした。

そんな中、幸運にも通産省の担当者が人事異動で代わったことから、認可が下りる目処がついたのだった。しかし、当時のトランジスタは、可聴周波数帯域にしか使えないもので、ラジオや無線機で使う、より高い周波数の電波帯域には使えなかった。WE社の技術者からも「補聴器に使ったらいいのではないか」とアドバイスされたという。

[ラジオに使える高周波用トランジスタの開発にチャレンジ]

井深さんは、補聴器では市場規模が知れている。もっと市場規模の大きいラジオをトランジスタで作るのでなければ意味が無いと考えた。まだ、アメリカでさえ補聴器に使える程度の低い周波数でしか動作しないトランジスタを、町工場規模の東通工が一から開発するなんて出来るはずが無い。社運をかけてまでやる必要があるのかという声もあった。井深さんの友人であるNHKの島さんもそう思っていた1人で、電気の専門家ならほとんどの人がそう考えていた。

というのも技術開発で先行していたアメリカでさえ、トランジスタの生産歩留まりは5%あるかないかといった程度で生産コストは非常に高く、量産するのは難しかった。とても民生品に使うなど無理な状況があった。「ラジオに使える高周波用トランジスタの開発」「民生品用として安価に量産できる高い歩留まり」と、解決しなければならないハードルは高かった。それでも井深さんは「歩留まりが悪ければ良くすればいい。だれもが出来ないということやるから面白いんだ。必ず出来る」と、技術者を鼓舞した。

[資料や製造ノウハウが無いゼロからの出発]

とはいうものの、実際トランジスタを作るといっても東通工には資料や製造ノウハウが無かった。当時、専務だった盛田さんがアメリカから持ち帰った「トランジスタ・テクノロジー」という1冊の本だけという頼りなさだった。そんな中でトランジスタ開発部隊のリーダーを志願したのは岩間和夫さんだった。岩間さんや社内の精鋭を集めたトランジスタ開発部隊は「トランジスタ・テクノロジー」を参考に研究をスタートした。やがて、岩間さんはWE社へトランジスタの研究のため行くことになった。

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トランジスタ開発に貢献した岩間和夫さん(ソニー提供)

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岩間さんが開発した拡声器「パワーメガホン」(ソニー提供)

「トランジスタ・テクノロジー」によって基礎的なことは理解していったものの、製造装置などの知識は全く無い。WE社は割りと自由に工場を見学させてくれたので、あまり通じない英語を使いながらも、教えてくれたことを報告書にまとめて東京へ送った。もちろん工場見学中には製造装置の図面をメモしたり撮影したりすることは許されなかった。見たこと、聞いたことをホテルに帰って思い出しながらレポートにまとめた。これが「岩間レポート」と呼ばれ、ソニーの歴史に残るレポートとなる。

[社運をかけたトランジスの製造に成功]

そのころ東京では、「トランジスタ・テクノロジー」と「岩間レポート」を手がかりに、トランジスタ製造装置の開発に全力をあげていた。自社だけでは無理なので協力工場の応援も得て酸化ゲルマニウム還元装置、スライスマシンなどトランジスタ製造に必要な一連の製造装置を開発していった。

そして初めて生産したトランジスタが動作したのは岩間さんがアメリカから帰国するわずか一週間前のことだった。「岩間さんが帰ってくる前にトランジスタを作ろう」という技術陣の目標は達成されたのである。帰国した岩間さんも「こんなに早くトランジスタが出来るなんて」と、ゲルマニウムの結晶を見ても初めは半信半疑だったという。トランジスタを使った発信機のメータの針が振れるのを見て、ようやく「トランジスが出来たのか」と認識できたほどだった。社運をかけて開発に着手したトランジスタが現実のものになった瞬間だった。

『参考文献』 Web:ソニーヒストリー、「本田宗一郎と井深大」(板谷敏弘、益田茂著)、「ソニー技術の秘密」(木原信敏著)