[ポータブルタイプのトランジスタラジオ開発に照準]

岩間さんや技術陣の努力の末、社運をかけて開発したトランジスタが完成した。その後、1954年には点接触型トランジスタと、接合型トランジスタを組み合わせたトランジスタラジオの試作品作りがスタートした。当時、各家庭には真空管式のラジオが普及しており、真空管をトランジスタに置き換えるだけでは、何のメリットも無かったばかりか、高価なトランジスタを使うことは逆にラジオのコストアップになるだけだった。そこで、何処にでも持ち運びのできる小型のポータブルラジオを作る必要があった。そのころ超小型真空管を使い電池で動作するポータブルラジオはあったが、ヒーターを使う真空管では消費電力が大きく、それだけ電池の消耗も激しく長時間ラジオを聴くことは難しかった。

[「世界初のトランジスタラジオを」という夢破れる]

真空管に変えてトランジスタを使うことで、小型化と低消費電力化が可能となるが、単にトランジスタを使うだけではいわゆる「ポケットサイズ」にすることは不可能だった。「ポケットサイズ」の実現には、バリコンやスピーカーを初めとする様々な部品を小型にしなければならなかった。そこで井深さん達は部品メーカーに行ってバリコンやスピーカーの小型化、高性能化を頼んで回った。

何としても「世界初のトランジスタラジオを作ろう」という井深さんだったが、1954年12月に「アメリカのリージェンシーという会社が世界初のトランジスタラジオをクリスマス商戦に向けて発売した」というショッキングなニュースが伝わってきた。「世界初のトランジスタラジオを」という井深さんの夢は破れてしまった。「通産省がもう少し早く許可してくれていたら」と残念がった井深さんだが、それなら、もっと良い製品を目指そうとトランジスタや回路の開発に一層努力を傾けた。

[トランジスタラジオ発売を機に「SONY」ブランド誕生]

こうした努力が実って、1955年1月には接合型トランジスタ5個を使用したスーパーヘテロダイン方式トランジスタラジオの試作品「TR-52」が出来上がった。そこで、アメリカ、カナダに市場調査と商談に盛田専務が行くことになり、この「TR-52」をサンプルとして持参することになった。だが、東京通信工業という名前ではアメリカ人は発音しづらく、そんな名前では商売が難しいので、アメリカ人に覚えてもらいやすい名前を考える必要が出てきた。

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幻となったトランジスタラジオTR-52(ソニー提供)

この時、その後の運命を決定的にする「SONY(ソニー)」の名前が誕生するわけだが、このあたりのことは、あまりにも有名なので簡単に触れるだけにしておきたい。音「SOUND」、「SONIC」の語源となったラテン語の「SONUS」と、小さい、坊やなどを意味する「SONNY」を結び付けて「SONY」の4文字に決めたのだった。井深さんや盛田さんは「今は小さい会社だが、やがて大きな会社に成長させて見せる」という想いを込めて命名したのだった。

[「SONY」ブランドでなければと10万台のオーダーを断る]

盛田さんは、「SONY」の4文字を付けたサンプルの「TR-52」を持参してアメリカに向かった。そしてアメリカの大手時計会社「ブローバー社」から、「そちらからの値段でよい、10万台のオーダーを出そう」という引き合いがあった。ただし、アメリカでは誰も知らない「SONY」ブランドでは売れない、ブローバー社のブランドで販売するというものだった。盛田さんは、海外で「SONY」の名前を有名にすることが会社を大きくするためには不可欠だと考えていたので、この商談を断るつもりだった。しかし、何と言っても10万台という大きな注文を自分の一存で断るわけにいかず、本社に「断りたい」と電報を打った。

その頃、トランジスタの開発は「金食い虫」と呼ばれていたほど、大きな投資だったので資金繰りに苦しんでいた本社では「10万台のオーダーを断るのはもったいない。名前なんかどうでもいいから商談をまとめろ」と返事が来た。しかし、自説を曲げたくない盛田さんは、再度「断りたい」と打電したが、本社サイドはOKしない。そこで盛田さんは、本社に電話した。「せっかくSONYの名前を付けたんだ、これで行こう。第一、今の東通工では10万台の生産は無理じゃないか」と、本社を説得した。そして、注文先の「ブローバー社」に行き断りの連絡をした。

[目先の利益にとらわれず将来を見据えた戦略を]

ブローバー社の社長は「誰も知らないSONYブランドで商売なんて無謀だ。我々だって50年かけて世界に知られるブランドにしたんだ」と、商売の知らないやつだと笑ったという。しかし、盛田さんは「あなたの会社だって50年前は誰も知らなかったのでしょう。我々も今、第一歩を踏み出したのであり、50年後にはSONYをあなたの会社と同じぐらい有名なブランドにしてみせる」と反論した。結局、商談は成立しないまま盛田さんは帰国した。だが、目先の利益にとらわれず、将来を見据えた戦略こそが、今日の世界的な企業SONYを育てる基礎となっているのである。

[思わぬトラブル発生で1号機・TR-52の発売を断念]

そんな訳で10万台のビッグな商談は決裂したのだったが、その後のトラブルを考えるとラッキーだったのかもしれない。と言うのも、このTR-52は、キャビネット前面の白い格子状のプラスチックが、国連ビルをイメージさせるところから"国連ビル"の愛称があったのだが、 キャビネット前面の格子(国連ビルの窓々)部分が、気温の上昇ともに膨張、変形し始めた。ついにはプラスチック全体が黒色の箱を浮き上げさせるトラブルが発生したのだ。夏場に向かい気温の上昇とともに100台のうちのほとんど全部が曲がり始める大事件となった。これには、井深さん達全員が色を失ってしまった。結局、売り物にならず、トランジスタラジオの1号機・TR-52は発売を目の前にして断念せざるを得なくなったのである。

[日本初のトランジスタラジオTR-55発売へ]

このキャビネット事件を良い教訓に、外形や色のみのデザインから本格的な材料研究に着手し、きれいで強く、永久に変形しないものへの実現に努力が重ねられていった。そして1955年8月、日本初のトランジスタラジオTR-55が発売された。このTR-55が完成したのは、回路設計技術者たちの努力に負うところが大きかった。

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日本初のトランジスタラジオTR-55(ソニー提供)

当時、トランジスタは歩留まりが悪く特性にバラつきがあった。そのため局部発振用コイルを、12種類も作り、トランジスタの特性のバラつきをカバーしたのである。バラつきのあるトランジスタ特性に見合ったコイルを組み合わせ安定した発信ができるようになった。また、このTR-55には、他社に先駆けてプリント配線板が使われ、小型化に貢献している。今では当たり前のプリント配線板だが、当時は大変な研究と改良の積み重ねが必要だった。

『参考文献』 Web:ソニーヒストリー、「本田宗一郎と井深大」(板谷敏弘、益田茂著)、「ソニー自叙伝」(ソニー広報センター著)、「ソニー技術の秘密」(木原信敏著)