エレクトロニクス立国の源流を探る
No.18 小さな町工場を世界のSONYに育て上げた井深大さん(第7回)
[トランジスタを使ったカラーテレビの商品化を目指す]
世界のソニーを代表する商品といえば数々ある中で、やはりカラーテレビということになるだろう。ソニー独自のブラウン管“トリニトロン”を使ったカラーテレビは、他社のシャドーマスク方式のブラウン管テレビに比べ、明るさ、発色の良さなどで優れ、大型販売店の店頭では「ソニーのテレビの隣に並べないでくれ」と他社の営業マンが販売店に頼み込むほどだった。そしてその後しばらく、“トリニトロン”を使ったカラーテレビでテレビ市場をリードしていくことになる。
実はこの、“トリニトロン”の開発には井深さん達の苦労がぎっしりと詰みこめられている。1955年8月に日本初のトランジスタラジオTR-55を、1960年5月に8型の白黒テレビ「TV8-301」、さらに1962年5月世界最小・最軽量のオールトランジスタテレビ「TV5-303」を発売したソニー。次に井深さんが目指したのは当然トランジスタを使ったカラーテレビとなる。「TV8-301」には、23石のトランジスタが使われていたが、まだ高圧整流には真空管2本が使われていた。
高圧整流用のシリコントランジスタや高周波用ゲルマニウムトランジスタの開発によってオールトランジスタテレビ「TV5-303」を発売することが出来たが、この開発には2年間かかった。高圧整流、高周波用トランジスタの開発によって、テレビ用のトランジスタには自信を深めていた井深さんは、カラーテレビでもソニーらしい特長のある他社がやっていないものを作ろうと考えていた。
[“クロマトロン”方式のカラーテレビにチャレンジ]
そのころカラーテレビには、一般的に米RCA社が開発したシャドウマスク方式の3電子銃カラーブラウン管が用いられていた。しかし、値段が高い、調整が難しい、故障が多いなどの欠点も多かった。しかも画面が白黒テレビより暗く、明るい部屋では綺麗な色が出ず、色ずれも起こりやすかった。このためカラーテレビの普及が進まず、テレビの先進国アメリカでも全体の5%程度、日本では、まったくと言っていいほど売れなかった。
井深さんは「欠点の多いシャドウマスク方式ではやりたくない、やるからには世の中にないソニーらしいものを作りたい」と思っていた。そして新しい技術を模索していた井深さんが手がけたのは、“クロマトロン”だった。実は、この“クロマトロン”との出会いも偶然だった。
ソニーは1961年3月に米国で開催されていた「IREショー」に「SV-201」という世界最小のVTRなどを参考出品していた。VTR開発責任者の木原信敏さんが説明員として会場にいたが、そこで、今まで見たこともない非常に明るいカラーディスプレイが展示してあるのを目にした。これは「IFF」と呼ばれる敵・味方を区別するための軍事用のカラーディスプレイだった。木原さんは、一目見た途端「これは、凄い。我々が探していたのはこれではなかろうか」と思った。「IFF」には、アメリカの有名な原子物理学者でノーベル賞を受賞したE・O・ローレンス博士によって発明された“クロマトロン”が使われていた。
[“苦労マトロン”とまで言われるほど実用化は苦労の連続]
木原さんから報告受けた井深さんは「ソニーの技術陣なら家庭用カラーテレビのブラウン管として実用化できると」判断、早速“クロマトロン”開発チームをスタートさせた。だが、この“クロマトロン”実用化までには予想以上の困難がつきまとった。様々な難題に出くわし社内では“苦労マトロン”とまで言われるほど、その実用化は苦労の連続だった。研究・開発費は膨大となり、ソニーの存続さえ危うくさせる事態を招いてしまった。
では、“クロマトロン”がかかえていた難題とは何だったのか。それは、高電圧による障害と、それを防ぐための絶縁作業の難しさだった。前面パネル内側に垂直配列する蛍光体の細い線の数は、NTSC方式のテレビ受像機の解像度に相当する270本ないし300本くらいは必要となる。だが、それだけ細くすると、電子ビームを赤、緑、青色の蛍光体に当てるのをコントロールする色切り換えグリッドの針金の間隔も、非常に狭くなる。また電子ビームをシャープにするための高電圧に耐える絶縁が必要になる、これが最も難題だった。
さらに、蛍光体の焼き付けが非常に難しく、写真の露光のようにした焼き付けで蛍光体のスジを付けるシャドーマスク方式に対し、クロマトロンではブラウン管を組み立てて、そこに電子ビームを用いて焼き付けを行わなければならず生産性が非常に悪い。1台のプリントの機械で24時間フル操業しても1日たった24本しかできない。量産するとなると膨大な数のプリンターが必要になり設備投資が大変だ。これでは、いかに性能が良くても家庭用のカラーテレビとして量産は出来ない。
ソニー19型クロマトロン管(左)と16型シャドーマスク方式カラー受像管
[クロマトロン開発の失敗で資金繰りが悪化]
問題は残っていたものの1964年9月に、一応クロマトロンカラーテレビは完成し報道発表会が行なわれ世間の注目を集めた。しかし、家庭用カラーテレビとして量産し発売できるまでに、クロマトロンの様々な問題点を解決するための開発費は膨らむ一方で「このまままではクロマトロンと心中することになりかねない。この失敗は社長である私の責任」と考えた井深さんは、クロマトロンに代わる方式を探そう、そして今度は自分が開発リーダーとして開発チームを引っ張っていこうと考えた。
経営者から再び技術者として開発の先頭に立っていこうというのが井深さんのクロマトロン開発の失敗に対する責任の取り方だった。膨大な開発費のため資金繰りが悪化していたが「お金のことは私がすべて考えます。井深さんは思う存分やってみてください」と、盛田さんが言ってくれた。盛田さんの資金調達の援護射撃もあって、その後、井深さんは開発の最前線に立つことができたのだった。
[クロマトロンはあきらめシャドーマスクに切り換えも検討]
クロマトロンカラーテレビの量産化のめどがたたぬまま、時間が経ってゆく。井深さん達は、あせった。一方、その間にシャドーマスク方式の方は改良が進み、画面も明るく奇麗になってゆく。「1966年中に量産のメドが立たなければクロマトロンはあきらめ、シャドーマスクに切り換えを」と、井深さんも本格的にシャドーマスクへの切り換えを検討し始めるようになった。
そんな折、1つの報告が井深さんを勇気付けた。1966年の夏、吉田さんが渡米し、ポルトカラーというシャドーマスクとインライン配列の3電子銃を組み合わせた米GE社の 13インチカラーテレビの視察をした。これは小型テレビ向きの特殊技術で、大型に使うには無理の多い技術であったのだが、これにヒントを得て、電子銃の改良を提案、「1本の電子銃で、電子ビームを3本走らせることができるかどうか、実験してみよう」と開発技術陣に実験するよう指示した。
しかし、技術者達は、そんなことが出来るはずがない「気は確かだろうか」とあまりやる気は無かった。ところが、しぶしぶながらやってみると思いがけない好結果が出た。この実験の結果を聞いた井深さんは技術者としての直感から「この技術は、筋がいい」と思った。そして、その年の暮れ、新電子銃の原型ができ上がった。この電子銃を、クロマトロンに入れて実験をしたところ、今までにない安定した綺麗な画面が出てきた。井深さんは、これでクロマトロンを使ったカラーテレビを作ることが出来ると自信を深めた。しかし、新電子銃を使えば良いことが分かっても、量産性の課題は残ったままだった。
井深さんはこれまで、様々な難題を解決して、トランジスタやトランジスタラジオを開発してきた、うちの技術者ならできると信頼していた。そして、これに応えたのは大越さんだった。薄い金属板に、写真化学的に細い縦孔をたくさん並べて開けたもので、それを金属枠にピンと張り付けた構造を持つ「アパチャーグリル」という概念のものだった。電子ビームの透過率は20%でシャドーマスクに比べて5%も明るい。おまけに、すだれ状の構造がクロマトロンにも似ている。実は、技術陣としてクロマトロン開発は失敗だったと世間に思われたくなかったのだ。これならクロマトロンの発展形とも言える。だが、この似ていることが後に特許の訴訟問題にまで発展するのだった。
さて、苦労の末完成した試作機だったが、アパチャーグリルの金属縦格子が振動を起こし、電子ビームの狙いが定まらず、色むらが生じてしまう難題があった。技術陣も試行錯誤したが解決策がなかなか見つからない。そんな時、井深さんは細いピアノ線を水平方向に張って振動を止めるアイデアを思いついた。早速やってみたところ確実に振動は止まった。これで難題はほぼ解決し、試作機の準備にとりかかった。
[遂に完成したトリニトロンカラーテレビ]
1967年10月15日、開発チームの総力をあげての徹夜の作業によって新しいブラウン管が完成した。これに電気回路を組み合わせ、カラーテレビが誕生した。電源が入れられ、美しい色、明るい画面が目の前に広がった。誰1人として口を開く者はない、ただ食い入るように画面を見つめていた。
この結果を聞いて、井深さんたちも駆け付けてきた。「皆さん、ご苦労さんでした・・・」。激励の言葉をかけてやりたいと思うものの、井深さんはそれだけ言うのが精いっぱいだった。思えば苦難の連続で遠い回り道をしたが、数々の苦労を忘れさせるほどの見事な結果だった。そして、この新しいカラーテレビは“トリニトロン”と命名された。キリスト教でいうトリニティ(神と子と聖霊の三位一体)とエレクトロン(電子)の合成語である。やがて、このトリニトロンカラーテレビが世界的なヒット商品となり、ソニーを世界一のテレビメーカーへと押し上げてゆく。
トリニトロンカラーテレビ1号機「KV-1310」
『参考文献』 Web:ソニーヒストリー、「本田宗一郎と井深大」(板谷敏弘、益田茂著)、「ソニー自叙伝」(ソニー広報センター著)、フリー百科事典『ウィキペディア』