経営を支えた「もう1人の創業者」

日本を代表する世界的企業のホンダとソニー。その創業者である本田宗一郎と井深大もまた同時代の経営者であり、似たところも多く、よく対比させながら取り上げられる事が多い。車とエレクトロニクスの業界は違うものの、天才的なエンジニアとして、そして戦後の焼け跡から出発して世界的な大企業に育てあげた点で共通している。

さらに“浜松のエジソン”と呼ばれた本田さん、“天才科学少年”だった井深さん、2人ともエンニジアとしては比類まれなる天才であったが、それだけでは会社を世界的な大企業に発展させることは出来なかっただろう。つまり天才的なエンニジアがいかに画期的なものを作っても。それを売り、利益を生み出してゆくには、また営業、経営という面において別な才能が必要となる。

この点においても2人は、それぞれ「もう1人の創業者」といわれる優れた経営センスをもった人物がそばにいた。ホンダの藤澤武夫さんと、ソニーの盛田昭夫さんである。本田さんや井深さんが、新しい技術や製品の開発に専念できたのも、藤澤さんや盛田さんのバックアップがあったからこそである。

“世の中に無い新しい製品”の開発に取組む

そしてまた、本田さん、井深さんとも“新しいものの創造と、未来への夢”を持つ点で共通しており、世の中に無い新しい技術、製品を世に送り出していこうという理念を持っていた。これを実現するために、才能のある人材の発掘、失敗を恐れずチャレンジさせるという人の使い方でも共通している。また、会社を個人的な同族企業とせず、能力のある人物に経営を委譲していくという点でも、これまた共通しているのである。

井深さんは、次の社長の座を盛田さんに譲り、そしてまた盛田さんは岩間和夫さんへ、岩間さんは大賀典雄さんへとバトンタッチしてゆく。そして井深さんが夢見ていた“世の中に無い新しい製品”の開発に後輩たちがチャレンジしてゆく。その結果がソニーを世界的な大企業に成長させてゆくとともに、日本のエレクトロニクス発展の原動力となっていった。

トランジスタ技術を独占せず「ソニー・モルモット論」が

ソニーの「もう1人の創業者」と言われている盛田さんは、この連載の第2回で紹介しているように、偶然目に泊まった朝日新聞の記事に井深さんの活躍が掲載されていたことが再会するきっかけとなった。そしてトランジスタやテープレコーダー、カラーテレビの開発において技術、資金両面で井深さんを支えていくことになる。

井深さんや盛田さんは、トランジスタ開発においてこの連載で紹介しているように、あれだけ苦労したにもかかわらずトランジスタ技術を独占せず、業界他社にもトランジスタの活用を促し、利用を広めようとした。そして東芝がソニーを抜いてトランジスタ生産量トップとなる。このため、「ソニー・モルモット論」がでるほどだった。ソニーが苦労の末開発したトランジスタ技術を、他社がうまくその技術を利用したということでそう言われたのだった。しかし、井深さん達は、トランジスタを使った製品がどんどん海外へ輸出されることによって日本が“エレクトロニクス立国”となるのであれば、それでよしと考えていた。

ソニーにしか出来ない事を、ソニーがやらなくなったら、ソニーではなくなる

また、井深さんは「ソニーにしか出来ない事を、ソニーがやらなくなったら、ソニーではなくなる」との強い信念を持っていた。その強い信念が、盛田さんをはじめとする歴代の社長や技術者に受け継がれていった。そのソニーらしい商品の代表格が“ウォークマン”。“ウォークマン”は再生専用のポータブルカセットプレーヤー。カセットテープの再生専用機を作ることを発案したのは井深さんだ。

音楽好きの井深さんはヘッドホンでステレオを楽しむことが好きだった。仕事でアメリカに飛行機で往復する時に機内のヘッドホンの音の悪さが我慢できなかったのだ。機内のヘッドホンは聴診器のようなもので、音質など考慮されたものでなかった。しかたなく井深さんは重たいテープレコーダーを持ち込んで聴いていた。ポータブルと言っても、当時のものは大きくて重たい。これを毎回、機内に持ち込むのが苦痛だった。

そこで、小型軽量で持ち運びが楽なテープレコーダーを作ってくれとオーディオ部門に頼んだ。小型軽量にするためなら再生だけでもいいというのが井深さんの考えだったが、何時まで待っても作ってくれない。それもそのはず、それまでは、テープレコーダーという名の通りレコーダーであり録音でき、また再生も当然出来るプレーヤーでもあるのが世間の常識だった。

再生しかできない商品なんて売れるわけが無いと考えるのが自然な成り行きであり、カセットテープの再生専用機など作ったところで売れるわけが無いとオーディオ部門では作ってくれなかった。そこで井深さんは、盛田さんに「こういうコンセプトの商品だったら買ってもらえるのでは」と頼んだが、ものが出来てきたのは2年くらいしてからだった。

皆の反対を押し切って“ウォークマン”を発売

それは井深さんが予想していたものよりはるかに小さいものだった。井深さんは大喜びだったが、営業部門は反対した。「録音できないようなものを2〜3万円で売れといっても売れるわけが無い」と国内営業ばかりでなくアメリカの営業部隊も反対した。それでも、自分の体験から、そういったコンセプトの商品は必要だと思っていた井深さんは「皆が反対するものをやれば儲かるんだ」と、皆の反対を頑張って押し切った。

そして1979年7月にヘッドホンステレオ“ウォークマン”「TSP-L2」が発売された。井深さんと盛田さんは月産10万台とオーディオ部門に指示していたが、そんなもの売れるわけが無いと考えていた工場サイドでは2万台しか作らなかった。井深さんは「(僕と盛田さんがワーワーいうから、しかたない、やってやろう)ということだったのではないか」と当時を振り返っている。

しかし、いざ売り出してみると、あっという間に売れ切れてしまうほどの人気を呼んだ。この“ウォークマン”というネーミングも英語としてはおかしい「歩く人」ということになる。盛田さんが司会して会議を開いて決めたが、盛田さんはこのネーミングに反対したという。しかし、わかりやすい名前ということで決まったといわれる。

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世界初のヘッドホンステレオ“ウォークマン”「TSP-L2」(ソニー歴史資料館にて撮影)

“ウォークマン”の大ヒットで、その後、相次いで各メーカーが同様な商品を発売し、“ウォークマン”はヘッドホンステレオの代名詞となった。そして、アメリカで、“ウォークマン”を持ちローラースケートに乗りステレオを聴きながら走る姿が新しいライフスタイルとしてブームとなる。「ステレオは家で聴くもの」といった既成概念を覆した“ウォークマン”は、世界的に普及していった。

やがてメディアはカセットテープから、ディスクへと進化して“CDウォークマン”、“MDウォークマン”が発売される。ランダムアクセスが可能で曲の頭だしが不要で使い勝手が良く、デジタル化されたことで音質も格段に向上したCDやMDヘッドホンステレオへと進化してゆく。この分野でもソニーをはじめとする日本のメーカーが世界をリードして行く。その源流は井深さんが提案した再生専用の小型カセットテーププレーヤーだった。

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MD“ウォークマン”の1号機「MZ-1」(ソニー歴史資料館にて撮影)

『参考文献』 Web:ソニーヒストリー、ソニー歴史資料館、「本田宗一郎と井深大」(板谷敏弘、益田茂著)、「ソニー自叙伝」(ソニー広報センター著)、井深大の世界(毎日新聞社)