オランダのフィリップスを見習う

トランジスタの開発に成功した井深さんは、次にトランジスタを民生用品に活用することにチャレンジ。トランジスタテレビ、トランジスターテープレコーダーと次々にトランジスタ応用商品の開発に成功する。これらのトランジスタ応用商品は国内で約半分、海外へ半分輸出していたが、海外では販売代理店を通じて販売していた。

販売は当時、専務だった盛田さんに任せていた。盛田さんはオランダのフィリップスの工場見学に行った時、フィリップスの活躍を目の当たりにして、オランダのような小さな国でも世界を相手に商売ができる大企業を作ることができるのなら、同じような環境にある日本だって、世界をまたに駆けて商売できる企業を作ることができるはずだと感じた。

「世界のSONY」を目指すには自前の販売網が必要

戦後間もない1950年代、輸出企業は、日本の商社や海外の販売代理店を通して輸出するのが常識だっただけに、海外に自前の事務所や販売網を作ろうとする会社はほとんど無かった。しかし、「世界のSONY」を目指していた井深さんや盛田さんは、自前の事務所や販売網を作らなければその実現は難しいと考えた。

だが、それは理想ではあるが、日本の電気メーカーはいずれも海外販売代理店を通して輸出しており、すでに契約している販売代理店との契約を解消してまで自前の販売網作りを行なうのは大冒険だった。当時、ソニーは米国における販売は、アグロット社とトランジスタラジオの販売契約を結び、配給業者として卸業者デルモニコ社が担当していた。また、スーパースコープ社とテープレコーダーの販売契約を結んでいた。

しかし、力関係からか販売代理店が独断で値段を決めてしまったり、新製品の発表を勝手にやってしまったりと、メーカーであるソニーに無断で動いてしまうことがあった。そうしたこともあって、例え時期尚早と言われようとも、無謀な冒険と言われようとも、森田さんは「今、決断する時だ」と販売代理店との解約の交渉を行なう決断をしたのだった。

photo

海外の販売網作りに努力した盛田さん

大冒険と言われながらもソニー・アメリカを設立

まず、そのための準備として、ニューヨーク、ホンコン、チューリッヒには事務所を開設し、アイルランドのシャノンに工場を設置し、海外進出の態勢を整えることとなった。当時は、外貨不足の時代であったため、全額出資の子会社を海外に設立するためには日本政府の認可を得なくてはならなかった。そこで当時の大蔵省通いを行い、認可を得る努力が続けられた。

その努力の結果、資本金50万ドル(当時で約1億8千万円)の払い込みを無事終え、1960年2月にニューヨークにソニー・アメリカ(Sony Corporation of America=SONAM)を設立し、自ら販売活動に乗り出すことになった。だが、代理店を通さずにやっていけるのか、という不安の声も多かった。こうした声に対して盛田さんは「時期尚早という気はする。しかし、今をおいて好機はないと考えている。好機到来ならば、あえて苦労を辞さないという精神を常に持っていただきたい」と社内に向かって決意を語った。

まさに、今で言うベンチャービジネスのような「チャンスがあるならチャレンジする」といった積極的な姿勢がうかがえる。これは、「やりがいのある、苦労しがいのある仕事だと思ったら、生みの苦しみがどんなに大きいものであれ、チャンスを逃さず実行に移していく。技術でも販売でも同じである」と言う、まさにソニーらしさが発揮された結果だった。

難航した代理店契約解消の話し合い

さて、次は、デルモニコ社との代理店契約解消の話し合いを行うことだ。盛田さんは、弁護士を頼み、交渉に入った。しかし、デルモニコ社は「契約を解消するなら補償金を支払え」と言ってきた。しかも、法外な補償金を要求してきた。だが、もとはと言えばデルモニコ社がソニーに無断で違反行為を行なってきたことが契約解消の要因であるとし、この要求をはねのけた。そして円満解決のための粘り強い交渉の結果、補償金は最初の4分の1で決着した。ここに、ようやくソニー自前の販売網作りをスタートすることが出来たのだった。

トランジスタラジオの素晴しさを一人ひとりに説明

ソニー・アメリカでの盛田さんたちの仕事は、まずトランジスタラジオを売り込むことだった。 すでに、アメリカにはたくさんの民放局があり、番組が常時流れていた。当然、ラジオは家庭やオフィスで普及しており、ラジオを聞くには不自由はなかった。そうした環境の中でトランジスタラジオを如何に売り込むかが課題だった。

そこで盛田さんたちは、「今までのラジオだと、机の上に置いて聴かなくてはいけないが、トランジスタラジオなら誰もが、自分の好きな時間に、好きな場所で思い思いの番組を聴くことができる」と説得、トランジスタラジオならではの楽しみ方を説明しながら、新しいマーケットを作っていった。一人ひとりにトランジスタラジオの素晴しさ、便利さを説明するといった地道な努力を積み重ねる必要があった。

今では、ごく当たり前のことでも、それまで無かった商品を最初に普及させるのは、大変な努力がいることを示した例といえるだろう。だが、「世界初の商品」を生み出してゆくのが社是でもあるソニーだからこそ、また味わわなければならない試練でもあった。

photo

常に他社に先駆け世界初の商品を作り「業界のモルモット」の異名をもらい、それを記念して井深さんに贈られた金色のモルモット (ソニー歴史資料館にて撮影)

ヨーロッパにも次々と自前の販売網を作る

ソニー・アメリカに続いて、ハワイに「ソニー・ハワイ」を、そして、カナダのトロントに「ソニー・カナダ」を設立し、徐々に海外の販売網が作られていった。さらに、ヨーロッパにおける販売網作りが始まった。1968年5月に、ソニー・UKを設立。また1970年6月に、西ドイツのケルンに、ソニー・ドイツを設立した。

だが、そのころのフランスは、外国の直接投資をほとんど認めておらず「ソニー・フランス」の設立は難事業だった。自国産業保護の壁や、ソニーの販売代理店トランシャン社の店主と大蔵大臣ジスカールディスタンが親密だったことから、契約解消交渉が進まなかったのだ。だが、四苦八苦の末、1973年2月に、ソニー・フランスの設立にこぎつけた。だが、ヨーロッパ市場は、ブランド志向が強く、知名度がまだまだ低いソニーにはブランドを浸透させることが重要な課題だった。

このころ、日本からの輸出品はまだ“安かろう、悪かろう”と言った2流品、3流品のイメージが強かった。そうした中でソニーが開設したシャンゼリゼ通りのショールームは、ソニーのイメージアップを図るのに大いに役だった。自前の販売会社を作ることによって「高価だが、高品質なソニー製品」を売り込む体制が整った。

「SONY」ブランドを世界に通用する一流ブランドとすることが出来たのは、井深さんが努力した「たゆまない技術革新と、世界初の商品作り」、そして盛田さんたちの「自前の販売網作りと、ブランド戦略」の両輪が揃って前進した結果なのである。

photo

トランジスタラジオの輸出で「世界のSONY」ブランドを確立(ソニー歴史資料館にて撮影)

『参考文献』 Web:ソニーヒストリー、ソニー歴史資料館、「本田宗一郎と井深大」(板谷敏弘、益田茂著)、「ソニー自叙伝」(ソニー広報センター著)、井深大の世界(毎日新聞社)