放送業務用の機器でも世界有数のメーカーに成長

SONYと言えば、ラジオ、テレビなど民生用商品を思い浮かべる人が多いが放送業務用機器でも世界トップクラスのメーカーだ。世界の放送局ではSONY製の録音機、ビデオカメラ、VTR、マイク、アンプなどが活躍している。その原点は、井深さんが、戦前、映画の録音業務を行う写真科学研究所に入り、映画の仕事をしていたことにある。

そして映写機をつくる同社系列の日本光音工業に移籍し、測定器の研究をしていた。しかし、戦争が始まったため映写機製造は無理となった。そこで井深さんは、友人などと測定器専門の会社、日本測定器を設立。測定器は軍のレーダー開発などに使用され、井深さん達の技術の優秀さが認められた。また、アマチュア無線のファンでもあった井深さんは、放送にも大いに関心を持っていた。

放送局用ポータブル型テープレコーダー“デンスケ”が大ヒット

戦後、敗戦で焼け野原になった東京で、「東京通信研究所」を設立したが、食うや食わずの混乱期だけにやることが無い。そこで井深さんは、無線の技術を生かしてラジオの修理からスタートした。その後、食い繋ぐために「電気炊飯器」や、「電気ざぶとん」などを造るのだが、井深さんは、ラジオやテレビ、録音機を造りたいとずっと考えていた。

その後、トランジスタラジオやテープレコーダーなど民生用機器の開発に成功していくのだが、放送業務用となるとそう簡単には行かない。性能はもとより、故障しないという信頼性が最優先される世界だからである。ラジオなら故障しても、修理するまで聞くのを我慢すればよい。しかし、放送局用機器は故障したからと放送をストップするわけには行かないのだ。したがって、実績のあるメーカーの信頼性の高い製品が採用の条件になる。

放送業務用機器では、アメリカのRCAやアンペックスが圧倒的なシェアを持っていた。これら巨人の牙城に食い込むのは並み大抵な努力では難しい。そこで井深さん達は、民生用テープレコーダーで開発した技術を生かした放送局用のポータブル型テープレコーダー「M-1」を1951年に商品化した。この「M-1」は、なんと動力はモーターではなく、ゼンマイ式だった。当時は電池の性能がまだ悪くゼンマイ式を採用したことが放送局の街頭録音用に最適と大ヒットしたのだった。そして毎日新聞に掲載された横山隆一さんの漫画「デンスケ」に登場したことから、デンスケの愛称で有名になった。

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デンスケの愛称でヒットした携帯テレコ2号機「M-2」 (ソニー歴史資料館にて撮影)

SONYマークの入ったマイクがNHKや民放各局に採用される

放送局と言えば、まず思い浮かべるのが「マイク」だろう。マイク無しには、ラジオもテレビも始まらない。当時、このマイクも海外のメーカー製のものが圧倒的なシェアを持っていた。テープレコーダーを手がけていたソニーでも1952年に外国製に負けない高い評価を得たダイナミックマイク「F-600」を商品化していた。だが、放送業務用となると、より音質の良いコンデンサーマイクが必要となる。

しかし、当時はコンデンサーマイクも外国製品一辺倒で、特に音響のプロ達は、外国製マイクに一目おいており、日本製のマイクには見向きもしなかった。放送業務用市場に進出するには、そんな逆境の中でもコンデンサーマイクの開発に挑戦する必要があった。

そのころ、後にソニーに入社することになるNHK技術研究所の中島平太郎さんもコンデンサーマイクの試作に取り組んでいた。残念ながら完成までには至らなかったが、中島さんから基本的な技術開発のヒントをもらうことができた。マイクの開発は中津留要さんが責任者だったが、振動板にいろいろな材質のものを探してきてやってみたものの、どれもうまくいかない。

そんな折、米国からポリエステルフィルムが日本へ入ってきた。だが、このポリエステルフィルムをどう振動版に使えばよいのかが分からない。あれこれ模索している中で井深さんが一つのヒントをくれた。それが金を、真空中で蒸気のようなものにしてパッと飛ばしてくっ付けるというというものだった。これで問題が一つ解決し振動板が完成した。さらに、増幅用のプリアンプの開発にも成功し、SONYマークの入ったマイクがNHKや民放各局に採用され、放送業務用市場においてもソニーの足場が築かれていくことになる。

テレビ放送時代に突入したことが躍進の原動力に

しかし、なんと言っても放送業務用におけるソニーの地位を確固たるものにしたのはテレビ放送のスタートである。VTRを最初に実用化したのはアンペックス社で、1956年に回転4ヘッド、テープ幅2インチの「VR-1000」を発表、米国のテレビ局が導入した。なんと価格は当時で3,000万円もしたがNHKや民放局もこれを輸入し採用しなければならなかった。

やがて、日本メーカー各社もVTR国産化に乗り出すことになるが、ソニーも1958年にアンペックス方式のVTRの試作を開始し、わずか2カ月で最初の試作機を完成、国産VTRの第1号として発表した。テープレコーダーで「音の記録」の技術があるとはいえ、「映像の記録」は情報量が桁違いに多く比べ物にならないほど難しい。この驚異的な早さは、井深さんのVTR開発における情熱と、技術陣の努力が並み大抵のものでなかったことが想像できる。

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放送業務用VTR (ソニー歴史資料館にて撮影)

この試作機は、畳2枚ほどのスペースに床から天井までと、実に巨大ものだったがVTR技術をアンペックス社の水準まで引き上げるとともに、様々なVTRの技術を蓄積することができた。やがて独自のVTR開発へと進んでゆく。

そして、1962年に小型放送業務用VTR「PV-100」を発表、価格は248万円と低価格で、それまでの放送局用のものに比べ容積は50分の1、重さ60キログラムと持ち運びできるまでに小型化され、スポーツの競技会場に持ち込めるようになり“ビデオテープでもう一度”のアナウンサーのフレーズがお馴染みのものとなった。そして1964年に開催された東京オリンピックでもソニーのVTRが大活躍したのである。

また、1976年に放送業務用UマチックVTR「BVU-200」、放送業務用1インチVTR「BVH-1000」を発売した。1982年にはアナログ方式放送業務用1/2インチ“ベータカム”フォーマット・カメラ一体型VTR「BVW-1」を発売している。さらに、1987年にD1規格準拠の世界初のコンポーネントデジタルVTR「DVR-1000」、1988年にはD2規格準拠の放送業務用として世界初のコンポジットデジタルVTR「DVR-10」を発売、世界の放送業務用VTRをリードして行くことになる。

『参考文献』 Web:ソニーヒストリー、ソニー歴史資料館、「本田宗一郎と井深大」(板谷敏弘、益田茂著)、「ソニー自叙伝」(ソニー広報センター著)、井深大の世界(毎日新聞社)