電卓で培った先端技術が"エレクトロニクス立国日本"飛躍の源に

今や「電卓」(電子式卓上計算機)は、手のひらに納まるほど小型軽量となり、商品名とはかけ離れるほど小さくなってしまったが、開発初期の頃は机の上に置くことのできる小型の計算機ということで、いかに小型軽量化と低価格化を図るかが開発の最重要テーマだった。そして、この小さな電卓の開発で培った数々の先端技術が"エレクトロニクス立国日本"を大きく飛躍させる源となったのである。

電卓の商品開発の歴史は、世に「電卓戦争」と呼ばれるほどの低価格化競争の歴史だった。1970年代のピーク時には、名だたる電機メーカー、事務機メーカーのほとんどが電卓市場に参入し、数十社を超える大乱戦となった。この「電卓戦争」に勝ち残った代表格がシャープとカシオ計算機だが、その両社にしても、一時は在庫の山を築き電卓からの撤退も考えざるを得ないほど危機的な状況に陥った厳しい戦いだった。そこで、両社を中心に日本が歩んできた電卓市場を振り返ってみたい。

1964年(昭和39年)に電卓戦争始まる

日本の電卓戦争がスタートしたのは、東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開業した1964年(昭和39年)からで、この年に開催された「ビジネス・ショー」において、早川電機、キヤノン、ソニー、大井電気の4社が電卓をショー会場に展示した。また、1964年は「電卓元年」とも言われ、日本のエレクトロニクス技術が、飛躍的な発展に向かう年ともなった。「電卓の開発の歴史イコール、日本のエレクトロにクス技術発展の歴史」となるわけだが、その前に電卓が開発されるまでの計算機市場を振り返ってみたい。

1964年シャープが世界初の電卓「CS-10A」を発売

計算機は、電子式以前には、機械式計算機や、電気式計算機があった。機械式計算機は手動で歯車を回して計算するもので、モーターで歯車を回すのが電気式計算機である。しかしこれらは大型で動作音も大きく、価格も高い。そこでリレーを使った電気式計算機をカシオ計算機が開発した。

これはリレー式計算機と呼ばれ、大企業や大学などの研究機関を中心に普及していった。大きさは事務机程度で、計算中はリレーの音がカシャカシャと鳴って計算には結構時間がかかっていた。このため、電気回路を使用しメカニカルな部分に頼らず、高速で計算できる電子式の計算機の開発が求められていた。

電卓を最初に開発したのは、英国のBell Punch社でトランジスタを使った電子式計算機を1962年(昭和37年)に発表した。リレー式計算機に比べはるかに高速で、むろん音もない。しかも、机の上に置ける卓上型で、まさに電卓だった。だが、商品化とまでは行かなかったようで、世界初の商品化は1964年にシャープが発売したオールトランジスタ・ダイオードによる電卓「CS-10A」で、価格は当時の1,300CCの乗用車日産ブルーバード(540,000円)とほぼ同じの535,000円だった。

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オールトランジスタ式電卓「CS-10A」

大きさは、幅42cm、厚さ25cm、奥行き44cmで、重さ25kgだった。部品点数は、トランジスタ530個、ダイオード2,300個を始めとする4,000点が使用されていた。それでも机の上で使える計算機として人気を呼び、当初は月産400台だった目標を大きく上回る1,000台ペースで生産しても追いつかない状態となったほど。

「CS-10A」は、ゲルマニウムトランジスタを使っていたが、ゲルマニウムトランジスタは、熱に弱く不安定となるのが欠点だった。また、『位どり』の全てにキーが付いたフルキー方式だったため生産性が悪かった。そこで、翌年、熱に強く価格も下がり始めていたシリコントランジスタを使い、テンキー方式を採用した「CS-20A」を379,000円で発売し、ヒット商品となった。

シャープペンシルが現在の社名および商標"シャープ"に由来

シャープの電卓開発の歴史を見てみよう。シャープは、1912年(大正元年)に創業者・故早川徳次氏が徳尾錠(バンドのバックル)の発明で特許を取り、東京本所松井町で金属加工業を創業したのが始まりで、1915年(大正4年) 当時未開発であった金属文具の製作技術の研究改良を進め、金属繰り出し鉛筆を発明。 エバー・レディー・シャープペンシルと名づけて一世を風靡、これが現在の社名および商標である"シャープ"の由来となっている。

また、早川氏は1935年(昭和10年)早川金属工業研究所を設立。1942年(昭和17年)に早川電機工業と改めた。さらに、大阪万国博覧会が開催された1970年(昭和45年)に、現在のシャープとなり、早川会長、佐伯社長体制がスタートしている。

家電メーカーからエレクトロニクス、コンピュータメーカーへ

早川金属工業研究所から早川電機工業と社名を改めたのは、テレビを始めとする家電時代が到来すると予測、家電メーカーへ重心を移して行くためだった。そして1953年には、国産初の白黒テレビを"シャープ"ブランドで発売し、日本最有力のテレビメーカーとなった。総合家電メーカーとして順調に生長していったシャープだが、1960年代の不況で家電の需要が低迷するとともに、松下電器や、東芝、日立、三菱などが家電販売店を自社製品の専売店にする「系列店」政策に力を入れ始め、これに同社も対抗したものの販売網はライバルと大きく差がついてしまった。

この窮状を突破するためには家電以外にエレクトロニクスやコンピューター分野へ進出する必要があると考え、大学と一緒になって「早川オートマティック・コンピューター」"ハヤック"を開発した。さらに、1961年に中央研究所を設立、コンピューター、太陽電池、マイクロ波の研究を本格化させた。

しかし当時の通産省は、コンピューター産業育成のため支援企業として、富士通や日立製作所、東芝、日本電気、三菱電機、沖電気工業など6社を決定、シャープはその枠から外されてしまった。そこで、早川氏は新たに取組むテーマとして「電卓」を取り上げ、他社に先駆けて商品化していくことを決意した。

電卓開発の責任者として佐々木さんをスカウト

シャープの電卓開発の責任者として陣頭指揮をとったのが佐々木正さん(後の副社長)。当時、佐々木さんは、神戸工業で真空管式計算機の研究をしており、ベル研究所やRCAの研究員も兼ねていた。早川氏は、そんな佐々木さんを三顧の礼で取締役として迎えたのだった。

その佐々木さんは、「手のひらに乗り、商店街のおかみさんや親父さんが使える価格の電卓を商品化する」と常日頃言っていたので“ほら吹き佐々木”というあだ名を付けられてしまったが、1966年(昭和41年)佐々木さんをリーダーとする部隊は、世界で初めてバイポーラICを組み込んだ電卓「CS-31A」を開発・発売した。大きさは、幅40cm、厚さ22cm、奥行き48cmで、重さ13kgだった。価格は350,000円と「CS-10A」の6割程度に下げることが出来た。部品は、IC28個、トランジスタ553個、ダイオード1549個を使用、世界初の「IC電卓」と呼ばれた。

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IC電卓「CS-31A」

消費電力が少ないMOS ICに注目

佐々木さんは、電卓向けには消費電力が少ないMOS ICが適していると判断し、MOS ICを使った電卓「CS-16A」の商品化に成功し電卓戦争を優位に戦うことが出来た。「CS-16A」は、MOS ICを59個使用し、消費電力は10Wと、1号機「CS-10A」の90Wと比べ9分の1に激減させることに成功した。そして重量は4kgと約6分の1まで軽量化することが出来た。さらに価格も230,000円まで下げることができた。

だが、ICを使えば簡単に電卓を作ることができるとなれば、参入メーカーもますます増えてきた。中には4畳半メーカー、ガレージメーカーなどと呼ばれる小規模なメーカーまで出てきたことで電卓市場は、戦国時代に突入していく。そしてより集積度の高いICを使い、いかに小型軽量化、低下価格化を図るかがポイントとなってきた。

参考資料:「電子立国・日本の突破口」(佐々木正著:光文社)、「原点は夢 わが発想のテクノロジー」(佐々木正著:講談社)、「シャープのスパイラル成長経営」(下田博次著:にっかん書房)、「躍進シャープ」(宮元惇夫著:日本能率協会マネージメントセンター)、シャープ広報資料