電卓のLSI化による小型・軽量化、低価格化に取組む

シャープの佐々木さんは、消費電力の少ないMOS ICを使った電卓「CS-16A」の開発に成功したが、もっと安く、小型軽量の電卓を作るためにはさらに集積度が高いLSIを使い部品点数を減らし、組み立て工程も少なくてすむようにする必要があった。そこでLSIを購入しようとしたが、国内メーカーはまだ歩留まりが悪くLSIの生産がうまくいっていなかった。そこで海外のメーカーから購入することに決定。当時安定的にLSIを作っていた米国の半導体メーカーからLSIを購入するために、佐々木さんが渡米して交渉することになった。

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電卓開発で大きな功績を残した佐々木さん

難航したLSI購入交渉。軍需用で満足していた米国半導体メーカー

しかし、佐々木さんの米国でのLSI購入交渉は、なかなか思うように進まなかった。フェアチャイルド社やテキサス・インスツルメント社、モトローラー社、RCAなど10数社を訪問したが、どのメーカーに行っても断られたという。それは当時のLSIはミサイル用など軍用や宇宙開発用に使われており、数千個から数万個程度の生産でメーカーは十分利益をあげていたので、利益がでるかどうか分からない民生品の電卓用を新たに開発、生産する意欲は無かったのだ。

土壇場でロックウエル社から吉報が

それでもロックウエル社だけは、興味を示してくれたので佐々木さんは「会社の経営安定化のためには軍需用と民需用をバランスよく作っておいた方がいいのではないでしょうか。シャープは、年間300万個、3000万ドル購入する予定ですと」1日がかりで説得したものの、やはりだめだった。アメリカ中駆けずり回っても、結局、どこからも購入することができず、あきらめで帰国しようとした矢先、ロスアンゼルス空港で飛行機待ちをしていた佐々木さんの名前が場内放送で呼ばれた。

カウンターに行ってみるとロックウエル社の人が佐々木さんを待っていた。「取引を検討するので帰国を待ってほしい」という知らせだった。空港で待ち受けていたヘリコプターでロックウエル社に舞い戻った佐々木さんに「電卓用のMOS LSIを開発することにした」とロックウエル社の社長はOKの返事をした。そしてシャープと、技術提携を結び共同開発しようといううれしいい話だった。まるで映画のようなドラマチックな逆転劇だった。遂に、当時民生品にLSIを使うという発想の無かった米国半導体メーカーの説得に成功したのだった。

世界初のMOS-LSIを使った電卓「QT-8D」を発売

そしてロックウエル社からLSIを購入することに成功した佐々木さんは、1969年に世界初のMOS-LSIを使った電卓「QT-8D」を、電卓では始めて10万円を切る99,800円で発売し“電子そろばん”の愛称で大ヒット、電卓市場をリードすることができた。「QT-8D」は、MOS-LSIを4個使用し、消費電力は4WとMOS ICを使っていた「CS-16」の10Wから半分以下に抑えることが出来た。そして本体重量も4kgから1.4kgへ約3分の1に、サイズは幅13.5cm、高さ7.2cm、奥行き24.7cmと小型・軽量化することが出来、まさに“電子そろばん”の愛称ふさわしいサイズだった。「CS-16」ではMOS ICを59チップ使っていたが、MOS-LSIを使うことにより、入力、演算、記憶、表示などの回路を集積化、わずか4チップで実現できたのだった。

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「QT-8D」(左)と全TR式「CS-10A」(右)

ライバル電卓メーカーもMOS-LSI搭載化

シャープの「QT-8D」発売が契機となって、ライバルメーカーもMOS-LSI搭載を検討せざるを得なくなる。そのためにMOS-LSIを安定的に生産できる米国の半導体メーカーと購入交渉を開始した。そしてキヤノンはテキサス・インスツルメント社(TI)から、リコーはAMI社からMOS-LSIの供給を受けることとなった。

こうした状況に、日本の半導体メーカーから「シャープの佐々木は国賊だ」という非難が起きた。というのも、国内メーカーは、まだ安定的にLSIの生産が出来ていないが、多額の投資を行い安定的にLSIを量産する技術開発のめどがつき始めた段階で、米国から購入するというのは、せっかく育つ半導体産業をつぶしてしまうという非難だった。

アッセンブリーメーカーから脱却を決意

そうした非難に対して「なぜ米国の半導体メーカーから購入せざるを得なかったか」かについて、佐々木さんなりの言い分もあり、国内の半導体メーカーと対決しようとしたが、結局、そうした機会が得られなかった。しかし、このことが、後のシャープの運命を大きく左右することになった。それは、ICやLSIなどキーパーツを外部のメーカーから購入して製品を作るアッセンブリーメーカーから脱却することを決意するきっかけとなったからである。

1970年に戦後初の万国博覧会が大阪千里丘陵で開催されることになった。電機業界でも大手メーカーを始め各社がパビリオン作り出展することになった。当然、シャープも出展する計画で、15億円の出展費用を予算組みしていた。その一方で、奈良県の天理市に半導体などの工場や研究施設を建設する計画もあった。アッセンブリーメーカーから脱却するためには、自前の半導体工場がどうしても必要だ。米国のロックウエル社からLSIを購入したことで国賊呼ばわりもされた。それはともかくICやLSIを自社で作ることが出来れば万一、部品の供給がストップする事態となっても対応することができる。そして、オリジナルのICやLSIを使った、他社と差別化した特長ある商品も作りやすくなる。

「千里か、天理か」決断を迫られる

「イメージアップのための万国博覧会への出展」か「将来のための半導体工場、研究施設の建設」か、両方ともやるほどの資金は無い。「千里か、天理か」決断を迫られた。15億円投じても半年後には取り壊してしまう万博のパビリオン。かといって多額の投資をしても「金食い虫」と呼ばれるほど、次から次へと新たな投資を続けていかねば生き残れない半導体事業への本格的な参入。経営陣にとって、究極の決断を迫られていた。しかし、万博への出展申請書に判が押されゴーサインが出ていたのを敢えて中止してでも半導体工場を建設することになったのは、アッセンブリーメーカーから脱却という大きな目的があったからだ。

赤字続きで半導体事業からの撤退を決意

「天理」を選択したシャープは、半導体工場、研究所を核とした総合開発センターを75億円かけて建設、1970年10月に完成した。当時の資本金105億円の7割を超す巨額投資であり、社の命運をかけての投資となった。しかし、稼動してみると「金食い虫」の世評どうりで、決算は毎年赤字の連続となった。悪いことに1973年に第1次オイルショックが起き、景気は一気に低迷、半導体工場の操業率もどんどん落ちていった。やむなく経営陣は半導体事業からの撤退を決意する。

半導体工場の売却という最悪の事態は避けられた

そのころ米国モトローラー社では、日本進出を計画しており、シャープの半導体工場の買収を打診してきた。そこで佐々木さんはモトローラー社への売却交渉のため渡米することとなった。その時、佐々木さんは「私は責任者として工場を売った後、会社を辞めるつもりで辞表を机にしまって米国へ出発した。ところが売り先の会社に着いた時、大阪の本社からテレックスで“コウジョウハクロジニテンカン、バイキャクノヨウナシ、スグカエレ”という連絡が入った」と後に述べている。とりあえず半導体工場の売却という最悪の事態は避けられた。やがてこの半導体工場がシャープ躍進の原動力となっていく。

 参考資料:「電子立国・日本の突破口」(佐々木正著:光文社)、「原点は夢 わが発想のテクノロジー」(佐々木正著:講談社)、「シャープのスパイラル成長経営」(下田博次著:にっかん書房)、「躍進シャープ」(宮元惇夫著:日本能率協会マネージメントセンター)、シャープ広報資料