12,800円の低価格戦略が業界に大きな衝撃を

「手のひらサイズで12,800円!」。カシオミニの低価格戦略に新聞各紙も驚きの紙面が踊っていた。なにしろ1971年4月にオムロンが5万円を切る48,800円の低価格電卓「Omron800」を発売し、“オムロンショック”と呼ばれるほどの衝撃をライバルメーカーに見舞ったばかりで、そのわずか1年後に12,800円のカシオミニが登場したのだからマスコミの反応もわかろうというもの。

月産10万台と当時の常識では考えられない量産体制をスタート

カシオミニはなぜ12,800円という衝撃的な低価格を実現できたのだろうか。当時電卓の主流だった8桁表示を6桁表示(計算は最大12桁まで可能)と簡素化したことでコストダウンを実現したといわれている。また、心臓部のLSIや部品の設計を見直し安い値段で量産できるようにしたことと、月産10万台と当時の常識では考えられない量産体制をスタートさせたことである。

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累計1,000万台を達成したカシオミニ生産ライン

朝刊を見て「これでいける」と自信を深める

6桁表示や、小数点以下の表示ができないにことについては、批判もあったが、スクロールすることによって計算結果は表示することができるのでさほど支障にはならなかった。6桁表示にすることによるコストダウンを優先させたことの方がユーザーに受け入れられたのである。

しかし、月産10万台を達成できなければコスト計算が狂ってくるわけで、当時、営業本部長だった樫尾和雄さんは、カシオミニ発表翌日、1972年8月2日の各紙朝刊を見るまでは不安だった。そして早朝、待ちに待った朝刊の反響を見て「これでいける」と自信を深めたという。

テレビCM「答え一発、カシオミニ」が大きな宣伝効果

12,800円のカシオミニの発売に、マスコミが驚きをもって伝えた以上に一般消費者の反響も凄かった。テレビCM「答え一発、カシオミニ」による宣伝効果もあって店頭には購入客が大勢押し寄せた。心配された月産10万台では、需要に応えきれず、すぐ倍増の月産20万台体制を敷く必要に迫られたのだった。

新製品発表まで迷った価格決定

価格を12,800円とすることについては、当時の社長だった樫尾忠雄さん達四兄弟も9,800円にしようかなどと最終決定まで悩んだ。12,800円でも、それまで一番安かったライバルメーカーの主力機の約3分の1ではあるものの、日進月歩で新製品、新技術が開発されていた時期だけに、他社が何時思い切った低価格商品を発表してくるか予測できない状況にあったからだ。

これを如実に示しているのがカシオミニ発表のニュースリリースでは、価格表示の所は印刷ではなくゴム印で12,800円と表示されていたのだった。発表当日まで価格のところは空欄で、前日まで価格決定で悩んでいた様子が伺える。

業界では、電卓開発は8桁が基本だった

カシオミニの6桁表示についてライバルメーカーではどう受け取っていたのだろうか。シャープの電卓開発リーダーであった佐々木さんは「我々の電卓開発も8桁を基本としていた。海外での使用も考えると12桁表示が必要と考えていた」と振り返る。

6桁だと99万円までしか表示できず、最小限8桁は必要というのが当時の考え方だった。しかし、カシオ計算機ではパーソナル用なら99万円で十分用が足りると判断したのだ。また、当時は1ドル360円の時代だったのでシャープの考える12桁というのも海外での使用ということからすれば当然の帰結といえる。

シャープでも6桁表示の提案はあったがボツに

カシオミニの大ヒットでシャープのマーケットシェアも落ちてしまった。機能、性能で上回っていても価格で圧倒的な差があるため太刀打ちできなかった。当時、シャープの社長だった佐伯さんは「シャープの技術陣は1,000人、カシオは100人。それでどうしてカシオに負けるんだ」と烈火のごとく怒った。

誰も返答することができなかったが、シャープに限らず当時の技術者達は「6桁で計算する時代じゃない」と、8桁、さらには10桁、12桁へとより高性能化することに力を入れていた。実は、シャープでも6桁表示の提案があったが、商品化を検討する新製品委員会でボツになった経緯がある。「6桁表示では売れない」という先入観があったためで、その後の、商品開発の大きな反省点となった出来事だった。

技術者の基準とユーザーが日常使う機能の要求に差

実は、カシオミニの6桁表示の案というのは、当時、日本列島を席巻していたボーリングブームが背景にあり、「点数計算では6桁表示で十分なので、より安い電卓があれば便利」という発想で、アルバイト学生の提案から出た企画だったという。8桁が最低ラインと考えていた技術者の基準と、ユーザーが日常使う機能では要求度に差があったといえる。

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カシオミニのスペック表

カシオミニの発売によって電卓は文房具となった

カシオミニの発売によって、電卓は文房具となった。会社の事務所や商店で使う計算機から一般の人が日常、気軽に使う文房具へと進化したことで、電卓の国内生産台数は飛躍的に伸びた。経済産業省機械統計によると、1965年の国内生産台数は4,000台にすぎず、その後も微増ペースで、1967年に2万5,000台、1969年は16万3,000台となっている。そしてカシオミニの発売後の1973年には386万6,000台に、さらに1974年には996万台と1,000万台に近づき、1977年には4,000万台へと急成長していった。

生産台数は急上昇、それを上回る低価格化

生産台数の伸びとは逆に電卓の単価は急速に低下していった。1965年の418,559円から、1967年には181,795円に、さらに1971年には10万円を割り91,893円に、1975年には1万円を切り5,392円と生産台数の増加を上回るスピードで値下がりしていった。

一方、カシオミニの発売によって電卓のトップメーカーとなったカシオ計算機は、月産20万台体制を敷き、発売10カ月後には100万台の出荷台数を達成した。その後も、改良型カシオミニを発売しながら、累計生産台数1,000万台の大記録を打ち立てた。しかし、電卓戦争は、これで終わりではなかった。例えて、野球で言えば1回表裏の攻撃がやっと終わったに過ぎず、その後も激しい戦いが続いて行く。

参考資料:「電子立国・日本の突破口」(佐々木正著:光文社)、「原点は夢 わが発想のテクノロジー」(佐々木正著:講談社)、「シャープのスパイラル成長経営」(下田博次著:にっかん書房)、「躍進シャープ」(宮元惇夫著:日本能率協会マネージメントセンター)、シャープ広報資料、カシオ計算機広報資料、電卓博物館