エレクトロニクス立国の源流を探る
No.39 日本のエレクトロニクスを支えた技術 「電卓」第12回
樫尾4兄弟の活躍(2)
ソレノイド式計算機からリレー式計算機へ方向転換を決意
多くの苦難を乗り越えて開発したソレノイド式の計算機も、かけ算の答にまた別の数をかけ合わせる「連乗機能」がなかったことから時代遅れだと言われてしまった。そこで再び試行錯誤を繰り返し、ついに開発開始から7年目の1956年(昭和31年)に連乗機能もついた計算機が完成し、あとは量産というところまでこぎつけた。
ところが開発担当の俊雄さんが「もう一度最初からやり直したい」と言い出した。それは、ソレノイド式は機械的機構が複雑で量産に向いていないという理由からだった。そこで、ソレノイドに代えて当時電話交換機に使われていたリレー使った計算機を作ろうという発想だった。
開発を担当した俊雄さん(カシオ計算機提供)
機械的機構がなく電気回路の接点のON、OFFだけで計算するリレー式
俊雄さんは、逓信省東京逓信局(現在のNTT)に勤めていただけにリレーについては良く知っていた。忠雄さんも、機械的機構が複雑なソレノイド式には不安を持っていたこともあって電気回路の接点のON、OFFだけで計算するリレー式の方が優れていると思った。ただ俊雄さんが始めからリレー式について言い出さなかったのは、計算機にリレーを使うとなれば膨大な数のリレーが必要になることがわかっていたからだった。電話交換機のリレーとは比べ物にならないほどの数が必要になる。
すでにリレー式計算機は日米で開発されていたが高価で大き過ぎた
実は大戦中すでにリレーを使った大型計算機は米国で開発されていた。そして戦後、日本でも富士通が「FACOM100」の開発に成功していた。しかし、米国のリレー式計算機では13,000個ものリレーが使われており、富士通の「FACOM100」も一室を占領するほど巨大で、リレーの接点を埃から守るために部屋の空気をクリーンにする必要があり、オフィスで使えるようなものとはほど遠かった。
リレーの最大の欠点は、部屋の空気中に漂う微細な埃に接点が影響されやすいということである。一般のオフィスや大学などでも使えるようなリレー式計算機を作るには、埃の影響を排除する必要がある。さらに数千から1万個も使われていたリレーを少なくてすむように設計しなければ、低価格化と信頼性の向上は実現できない。
忠雄さんが俊雄さんの要求するリレーの試作品を作る
電話交換機のリレーでは計算機に不向きなので、計算機に適したリレーを忠雄さんが俊雄さんの描いた図面を見ながら作った。機械加工では天才的な技術を持っていた忠雄さんだけに、俊雄さんが要求するリレーの試作品をたった1日で作ってしまった。
リレーが1個でも接点不良を起こせば、計算機はダウンしてしまう。リレー1個には数個の接点があり、全体では膨大な数の接点となる。そこで形状を工夫したり接点に白金などの高価な材料を使ったりする必要があった。同時に使用するリレーの数を回路の工夫によって少なくて済むように設計を工夫した。
直列チェック回路、「テンキー」方式を採用
俊雄さんは直列チェック回路を考案、それまでの並列では桁毎にチェック回路が必要だったのを大幅に少なくすることで、リレーの数を342個に減らすことに成功した。そしてリレーが微細な埃による接触不良を起こさないように改良することにも成功した。これらによって計算機のサイズはうんと小型になった。
さらに、最大の特徴は「テンキー」の採用である。これが今日の電卓に受け継がれている標準入力方式となった。当時は、すべての桁に0〜9までの数字キーがついている「フルキー」を採用するのが常識で、計算機の上には膨大な数のキー林立していた。ところが「テンキー」方式のリレー式計算機は、その名の通り数字キーは全体で10個しかない。
オフィスでも使うことができる小型計算機の試作品が完成
また、表示にも独創的なアイデアが導入された。当時の計算機は3つの表示窓があり、「3×5=15」を計算する時には「3」「5」「15」すべての数が各表示窓に表示されていた。俊雄さんの開発したリレー式計算機は、1つの表示窓に入力した数「3」が表示され、次に「5」を入力すると「3」は消えて、「5」が表示され、最後に答の「15」が表示されるようになっていた。
現在では当たり前のこの方式も、当時は「いったん入力した数字が消えてしまうなんて不安で使えない」という反響が多く、常識破りのこの方式が受け入れられるまでには大変な苦労があったという。そして、入力の順番も従来なら「3」「5」「×」の順に入力していたが、「3」「×」「5」「=」の順に計算式通りにわかりやすくした。これらの工夫によってオフィスでも使うことができる小型計算機の試作品が完成した。それはリレー式に方向転換してからわずか半年のことだった。
リレー式計算機の試作機(カシオ計算機提供)
高さが規定外で飛行機に積み込みできず
そして、開発資金を援助してくれ、総販売代理店となってくれることになっていた札幌の事務機商社「大洋セールス」に持って行き地元のホテルに販売先の客を招いて発表会を行うことになる。ところが、いざ羽田空港に持っていくと係員が「この高さでは規定を超えるので積み込むことはできません」と言った。
計算機の寸法は、高さ70cm、幅1m、奥行き40cmで、重量は120kgだった。高さ70cmの内、表示部と入力キーを収納した部分が本体の上部にあり、これが約20cmで、これを本体から外すと規定寸法に収まり積み込むことができる。
だが、計算機にとって表示部と入力キーを収納した部分を取り外すということは、配線をおかしくしたりすることにもなりかねず、なんとしても避けたいことだった。俊雄さんたちは「外したり、取り付けたりすると故障の原因になるので何とかこのまま積み込んでいただけないでしょうか」と懇願するも頑として受け入れられなかった。
失敗に終わった新製品発表会
仕方なく札幌に着いてから急遽、取り付けを開始した。しかし、恐れていた通り、うまく動作しない。次の日が発表会であり俊雄さんたちは深夜まで悪戦苦闘を繰り返し、足し算、引き算が可能なまで回復させるも、掛け算、割り算の機能は回復できぬまま夜明けを迎えてしまう。
やむなく発表会場では、それまでの経緯を説明し、スライドなどを使って商品説明を行ったものの、期待が大きかっただけに動かないことへの失望も大きく、結局は失敗に終わってしまう。そして大洋セールスとの関係も破談となる。
失意の帰京となった俊雄さんは、札幌から送り返した計算機が着くとすぐに電源を入れてみたら、あれほど札幌で機嫌が悪かった計算機がすべて正常に動いた。列車に揺られて戻ってくるうちにリレーの接点の埃が取れたのかもしれない。しかし、動いたからと言って大洋セールスとの関係を復活させるわけにはいかなかったのである。
参考資料:カシオ計算機広報資料(社史ほか)、「私の履歴書 兄弟がいて」(樫尾忠雄著:日本経済新聞社)、「考える一族」(内橋克人著:新潮社)ほか。