エレクトロニクス立国の源流を探る
No.40 日本のエレクトロニクスを支えた技術 「電卓」第13回
樫尾4兄弟の活躍(3)
札幌での初のリレー式計算機の発表会は失敗に終わったが
輸送時の問題から札幌における初のリレー式計算機発表会は失敗に終わり、落胆して帰ってきた兄弟だが、これで計算機事業をあきらめることはなかった。むしろ自分たちの力で世界に認められる計算機を意地でも作ってみせるという決意がみなぎってきたのだった。とはいうものの、開発の為の資金繰りに奔走する日々が続いた。
そんなおり、一人の男が会社を訪ねてきた。内田洋行の社員で、リレー式計算機を是非見せてほしいと言う。というのも「札幌の支店長が発表会を見に行っていて、うちで扱ってみてはと、本社に進言していた」と言うのである。
下請け時代の仕事ぶりが評価される
札幌での発表会は失敗したのに訪れて来るのは何故かと不思議に思い「札幌の発表会では動かず失敗に終わったのですよ」と言うと、「失敗の理由は、輸送上の問題があったからだと聞いています。それでもう一度見てみたいと言うわけです」との話だった。
実はこれには理由があった。内田洋行は学校教材用顕微鏡を販売しており、忠雄さんたちが顕微鏡の部品を作る下請け仕事をキチッとやっていたことを知っていたのである。そのころの仕事ぶりが、樫尾製作所や樫尾兄弟への信頼となっていたのである。
学会の権威と言われた駒宮博士も高い評価
それから数日後、忠雄さんたちは東京・室町にある内田洋行本社を訪ね当時会長だった久田忠守会長に会う。久田会長は、家族や兄弟のことをたずねたり、いろんなアドバイスをしてくれたりしたと言う。そして学会の権威と言われた駒宮博士の立会いのもとリレー式計算機について俊雄さんが説明をした。駒宮博士はうなずきながら説明を聞いていたが「面白い。そういう考え方もあるのですね」と感心していたという。
内田洋行と総販売代理店契約を結ぶ
その後、内田洋行の緊急の役員会が開かれ忠雄さんたちのリレー式計算機の開発資金支援と総販売代理店権取得について検討された。役員会では「まだ海のものとも山のものともわからないものに投資するのは危険だ。もう少し様子を見た方が良いのでは」と消極的な意見も出た。しかし久田会長は「技術というのは人が作るものだよ。モノになるかどうかは人を見ればわかる。樫尾さん兄弟にはほれ込んだ。あの熱意と仲の良さがあれば、きっと成功するよ」と決断した。
事務機の老舗、内田洋行が契約してくれたこともあって忠雄さんたちの7年間の開発の苦労がついに報われた。そして内田洋行を総販売代理店とする契約が交わされ、リレー式計算機の開発・製造会社として、1957(昭和32)年6月、カシオ計算機株式会社が設立された。社長には兄弟の頼みで、父親の茂さんが就任することとった。
初のリレー式計算機「カシオ14-A型」を開発
内田洋行との総販売代理店契約がまとまり資金的にも余裕ができた。純国産のリレー式計算機の量産を目指して動き始めた。西久保に敷地面積160坪、床面積55坪の小さな工場を建てた。従業員は20名で組み立て作業を開始した。
5カ月間で6台のリレー式計算機を生産したところで、新製品発表会を昭和32年11月、東京・大手町のサンケイ会館を会場に行うこととなった。商品名は「カシオ14-A型」で、「14」は14桁まで計算できると言う意味である。そして「A」がアルファベットの最初、1号機と言うことを表している。
「カシオ14-A型」(カシオ計算機社史から)
商売敵であるはずの外国ディーラー関係者も思わずワンダフル
発表会場には事務機メーカーや商社、大学、民間研究機関の技術者、外国の事務機ディーラー、マスコミ関係者など大勢が訪れた。札幌のときとはうってかわって6台の計算機はリレーのカチカチという快調な音ともに正確に動作していた。訪れた客達が操作するたびにすばやく、答えが出てくる。商売敵であるはずの外国ディーラー関係者も、思わずワンダフルの連呼となった。
昭和32年度の科学技術庁長官賞を受賞
「カシオ14-A型」は、342個のリレーを使い、価格は485,000円で輸入物の電動計算機より若干高い価格設定だった。寸法は、幅1080mm、高さ780mm、奥行き445mm、重量140kgで四則算14桁、定数記憶は5桁3組だった。そしてこの「カシオ14-A型」は昭和32年度の科学技術庁長官賞を受賞した。
増産に次ぐ増産でも殺到する注文に追いつかず
昭和30年代は高度成長時代で、国民所得の増加、企業の設備投資の増加によって高い成長が続いた。また、技術革新も進んでエレクトロニクス、石油化学製品など様々な分野で相次いで新商品が開発されていった。「カシオ14-A型」も時代の流れを追い風に順調に注文が寄せられ、工場は増産に次ぐ増産を迫られた。それでも殺到する注文に追いつかないほどであった。
生産とともに技術的な相談が相次いだ。これには俊雄さんが一人で対応していたが、ついに過労で倒れてしまった。技術の要であった俊雄さんが倒れて入院、会社を休んだことで、あちこちに支障が起きてきた。そのことが若い社員の間に「俺たちで何とかしなければ」という気持ちを芽生えさせた。そして勉強会が毎晩行われるようになる。ある意味、俊雄さんの入院が、若手技術者を育てる要因となったと言えるかもしれない。
平方根の値が求められる計算機「カシオ14-B型」を開発
やがて退院した俊雄さんは、「カシオ14-A型」に次ぐ製品開発に取り組む。開発のヒントは、大学に納入した計算機のアフターサービスに出かけた社員から「平方根を簡単に出せる計算機があればたすかるのですが」という声を聞いてきたというのだ。技術用計算機では平方根の計算をする機会が多い。そこで「キー1つで自動的に平方根の値が求められる計算機を作ってやろう」と考えた。
それが「カシオ14-B型」で俊雄さん独自の工夫が込められたもの。「奇数の和は自然数の平方(自乗)に等しい」という公理から答を導き出す回路を考案した。同時にそれまでの計算機には無かった小数点の自動機能も付加された。この「カシオ14-B型」が後の科学技術用計算機へとつながって行くのである。
参考資料:カシオ計算機広報資料(社史ほか)、「私の履歴書 兄弟がいて」(樫尾忠雄著:日本経済新聞社)、「考える一族」(内橋克人著:新潮社)