樫尾4兄弟の活躍(5)

リレー式の最新鋭機「81型」を披露したが時代遅れと言われてしまう

忠雄さん達は、自信をもって販売店を本社工場に呼び、リレー式の最新鋭機「81型」を披露した。だが、販売店からの評価は「そんなリレー式計算機の時代じゃない」と厳しい声がでた。今さらリレー式なんてとても販売できないというムードが会場に漂った。忠雄さんは「このままでは販売店は離れて行ってしまう」と危機感を感じた。そこで、急きょまだ開発中で試作品程度の完成度でしかなかった電子式計算機を担当者に持ってこさせ、カシオでも電子式をやっていることをわかってもらうことにした。

リレー式新鋭機「81型」のお披露目の場が、何と電子式計算機の発表の場に

だが、それも「ちゃんと動いてくれるのかわからない」と開発者も心配するほどで、普通なら社外の人に見せるのは、はばかられる程度の段階のものだった。しかし、とっさに見せることになった電子式計算機の試作品は、幸運にもうまく動いてくれた。それを見た販売店は「これですよ、カシオさん。早く出してくださいよ」と、リレー式新鋭機「81型」のお披露目の場が、何と電子式計算機の発表の場となってしまった。

熱に弱いトランジスターが商品化を阻む

忠雄さん達がゴルフにうつつを抜かしている間に、技術者たちは電子式計算機の開発を進めていてくれたおかげで何とかその場を乗り切ったものの、商品としての完成度を高めるのが難題だった。というのも電子式計算機に使用するトランジスターは熱に弱く、製品にもばらつきが多かったため、いつ故障してもおかしくないほど性能が不安定で実際に市場に出すにはこの問題を解決しなければならなかった。

急遽、図書室を耐熱試験室に早変わり

当時は室温をコントロールできる部屋もない状態だったので、図書室となっていた小さな部屋を使い、窓を目張りしたり、石油ストーブを焚いたりして耐熱試験室に早変わりさせた。狭い部屋なのですぐ40度、50度と温度は上がるのだが技術者たちはたまらない。それでも技術者たちは下着一枚になって、汗を拭きながらもテスターと睨み続けた。

早朝、寒風吹きすさぶ工場周辺の畑で低温テスト

また、温度動作範囲の狭かったトランジスターは低温域でも動作が不安定だった。今度は、低温下における動作試験も必要だ。当然、試験は冬場の屋外となる。幸いというか工場は東京に比べて寒い多摩にあったので、まだ暗い早朝、寒風吹きすさぶ工場周辺の畑の近くで行った。早朝のテストだけに開発の指揮をとる幸雄さんや技術者は、前夜からの泊まり込みになる。

総販売代理店の内田洋行が代理店契約破棄

そんな努力の甲斐もあって、何とか商品化への道が開けようとしていた。ところが、総販売代理店の内田洋行から「代理店契約を破棄したい」と言ってきたのである。忠雄さんは「とうとう来るものが来た、心配していたことが現実となってしまった」と感じた。というのも、世は電子式計算機の時代へ移行しようとしている中で、開発が遅れ、しかも、シャープや大手電機メーカーが参入してきたからである。年商10億円そこそこのカシオでは大手に太刀打ちできないと判断されてもしかたない状況だった。

思いがけなく融資してくれた銀行に助けられる

忠雄さんは、長年つき合ってきた内田洋行とは、喧嘩別れはしたくないと、内田洋行にあった在庫を全部引き揚げることにした。だが、資金繰りは厳しくなり、電子式計算機を発売するまでの数か月を乗り切るため、忠雄さんの自宅や土地を担保にしなければならなくなった。そんな折、秋葉原で借りていたビルの大家から「事情があって、ビルを買い取ってもらうか、出て行ってもらうかしてほしい」と言われた。

運転資金にさえ事欠いていた中で、ビルを買い取るなんてとても不可能だった。と言ってビルを追い出されるのも困る。悩み抜いた忠雄さんは、思い切って銀行に相談に行った。忠雄さんの心配をよそに、支店長は「資金は貸しますから、ビルをお買いなさい」と言ってくれた。忠雄さんは思いがけない言葉に感謝したが、それも日頃から、良いことも悪いこと自分で銀行に行って支店長に報告していたことがよかったのだろうと思ったという。

おごることの恐ろしさを骨身にしみるほど味わった忠雄さん

相次ぐ難局を一人も従業員を解雇することなく、何とか乗り切ることができた。しかし、こうした一連の出来事で忠雄さんは、おごることの恐ろしさを骨身にしみるほど味わった。「技術で後れをとったら大変なことになる。今度失敗したら経営者失格だ」と肝に銘じた。そして、それ以降、平日のゴルフは一切止めた。以来、兄弟4人一緒にゴルフをすることも無い。

カシオ計算機初の電子式計算機「001型」が完成

開発が遅れていた電子式計算機だが、ようやく商品化のめどがついた。昭和40年秋にカシオ計算機初の電子式計算機「001型」が完成した。「001型」と命名したのも、一から出直すという意味を込めてのことだった。だが、世はオリンピック後の不況下にあり、電子式だからといって簡単に売れるほど甘くはなかった。値引き競争もあり決算は創業直後以来の赤字決算となった。

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カシオ計算機初の電子式計算機「001型」(カシオ計算機社史から)

海外の事務機ショーに出品すると好評だった

しかし、技術陣は「001型」に続いて技術計算用の「ルート001型」、16桁まで計算できる「164型」、輸出向けの「101型」を次々と開発していった。「101型」を米国の事務機ショーに出品すると米国のディーラーから扱いたいという声が多く、商談は順調だった。その後、ヨーロパ各国の事務機ショーに出品したところ米国同様、各国のディーラーから販売代理店契約の申込みがあり、経営も軌道に乗っていった。

会社も、米国やヨーロッパに営業所や販売会社を作るなど規模を拡大していった。当然、資金もより多く必要となり株式を上場することになった。そして電子式の宿命であるコンパクト化、低価格化から「電卓戦争」へと向かう。技術力と経営体力の競争が始まった。ここからは、すでに掲載している「電卓競争」をご覧いただきたい。

参考資料:カシオ計算機広報資料(社史ほか)、「私の履歴書 兄弟がいて」(樫尾忠雄著:日本経済新聞社)、「考える一族」(内橋克人著:新潮社)