エレクトロニクス立国の源流を探る
No.56 日本のエレクトロニクスを支えた技術「日本語ワープロ」第14回
「ニューメディア」時代、「マルチメディア」時代に対応
1980年代から1990年代にかけて、「ニューメディア」から、さらには「マルチメディア」時代の到来が叫ばれ、デジタル技術の最前線を行く日本語ワープロやパソコンの普及、そして記録メディアも磁気テープに加え、フロッピーディスク(FD)やハードディスク(HD)が盛んに利用されるようになっていった。その流れが、やがてCD‐ROMやDVD-ROMなどへ進化して行く。
メーカー各社もこうした時代の趨勢を敏感に読み取って、テレビ、パソコン、日本語ワープロなどに、「ニューメディア対応」、「マルチメディア対応」などの宣伝文句を謳うようになっていった。「ニューメディア」が叫ばれた時代は長く続かず、「マルチメディア」へと移行して行くのだが、インフラや、アプリケーションの未成熟さによって本格的な「マルチメディア」時代の到来には結び付かなかった。
ブロードバンド普及、インターネット社会に対応
人々が本格的な情報化時代、デジタル技術の恩恵を受けるのは、1990年代末から2000年以降のブロードバンドの普及によってインターネット社会に突入するまで待たねばならなかった。定額安価で常時接続の可能な、ADSL、CATV、FTTHなどのサービスが2000年前後から普及し始めたことによって定額で安価かつ常時接続可能な回線が利用できるようになった。
東芝最後の日本語ワープロ「Rupo JW-G7000」
こうした時代の流れを反映して、日本語ワープロは、パソコンの普及に押されながら、インターネット、マルチメディアなどの機能を取り込んで生き残りをかける努力が続けられた。しかし、結論から言うと、実質的に最後の日本語ワープロとなったのは1999年に東芝が発売した同社最後の「Rupo JW-G7000」と言えるだろう。この「Rupo JW-G7000」も2000年に製造終了となり、同社が1978年に初の日本語ワードプロセッサ「JW-10」を発売して以来、22年間で日本語ワードプロセッサの歴史は実質的に幕が引かれた形となった。
「Rupo JW-G7000」は、フルカラーの高画質なカラーハンディスキャナー、デジタルカメラの画像を取り込めるスマートメディアスロットを搭載していた。そしてこの画像を様々な加工処理を行い幅広く利用することができた。この機能は、後のパソコンでは標準的な機能となって行き、デジタルカメラの本格的な普及に大いに貢献していったのである。
各社がインターネットに対応したモデルを発売
むろん東芝以外でも、インターネット対応の日本語ワープロの新製品開発に力を入れていた。1997年には、日立がCPUにPentium プロセッサ(133MHz)を採用した「BW-CH700P」を発売した。8倍速CD-ROMやPCカードスロットを搭載し、インターネットに対応したモデルだった。
また、同年には富士通が「OASYS Mariott plus」を発売している。インターネット機能を装備しており、デジタルカメラとスキャナーからのカラー画像の入力機能を内蔵していた。さらに、タッチブラウザを搭載し、指タッチでのブラウザの利用が可能だった。これは、パソコンのマウス操作が苦手な人でも簡単に操作できるようにしたもので、家庭でだれもが操作できる情報機器「ホームプロセッサ」を目指したものだった。
さらに、NECも同年に高速処理CPUと33.6kbps高速モデムを搭載し、スムーズで快適なインターネットを利用できる「文豪JX-S700」「文豪JX-S500」を発売している。便利で簡単に操作できるプルダウンメニューを採用したほか、スピーカを内蔵し音声データの入ったホームページを閲覧できた。しかも、マイクが内蔵されておりワープロを使いながら電話ができた。
ちなみに、NEC最後の日本語ワープロとなったのは、東芝の最後の日本語ワープロ「Rupo JW-G7000」とほぼ同時期に発売された「文豪JX-750」で、これが文豪シリーズの幕を引く機種となった。音声認識機能やタッチボタンを搭載するとともに、脱着可能なハンデイスキャナーを採用しており、操作性に優れたモデルだった。
「Simple」「Square」「Skeleton」の3Sをコンセプトに開発されたコンパクトで優れたデザインは1999年度のグッドデザイン賞を受賞している。また、高速56kbpsモデムを内蔵し快適にインターネットやEメールが楽しめた。しかも、音声認識ナビゲーションにより、マイクに話しかけることによって印刷などの操作ができ、キーボードに触れることなく画面をタッチすることで簡単操作できた。
日本語ワープロ専用機からパソコンによる日本語処理へと移行
日本語ワープロは、1979年に東芝の「JW-10」が発売されて以来、年々販売台数が増えて行き、1989年には日本語ワープロ販売の年間最大出荷台数271万台を記録し、累計販売台数は1000万台を突破した。その後、急速に台頭してきたパソコンとの競合によって販売台数は減少していった。それでも、根強い需要に支えられ、1993年に累計販売台数が2000万台に到達した。そして、2000年には遂に3000万台を突破することになる。だが、2000年の年間販売台数はわずか26万台とピーク時の10分の1となり、日本語ワープロ専用機から、パソコンによる日本語処理へと移行していくことになった。
初代機「JW-10」
日本語ワードプロセッサが「IEEEマイルストーン」に認定
しかし、この間の日本語ワープロ技術開発で培った、人間が話す曖昧な言葉を、数字を計算する機械であるコンピュータで処理するという技術は、今日の携帯電話を使ったEメールのやり取りを始め、様々な情報端末機器において日本語を取り扱いできるようになり、その功績は非常に大きい。そして、この功績をたたえ日本語ワープロが「IEEEマイルストーン」に認定された。
「IEEEマイルストーン」記念の銘板
日本語ワープロが、日本の情報化社会の進展において主要な役割を果たすとともに、パーソナルコンピュータにおける日本語ワードプロセッシングの基礎となった点が認められたものである。「IEEEマイルストーン」は、電気・電子技術およびその関連分野において、社会に大きく貢献したと認定される歴史的な業績を表彰するもので、1983年に制定されて以来、全世界で80件以上のマイルストーンが認定されている。日本での認定は日本語ワードプロセッサが8件目となった。
参考資料:東芝HP、シャープHP、カシオ計算機HP,「新・匠の時代」(内橋克人著:文芸春秋)、東芝科学館、「日本語ワープロの誕生」(森健一、八木橋利明:丸善)、社団法人情報処理学会HP、富士通HP、NEC・HPほか