エレクトロニクス立国の源流を探る
No.57 日本のエレクトロニクスを支えた技術「パーソナルコンピュータ」第1回
大型コンピュータからパーソナルコンピュータへと続く競争
世界初のコンピュータが開発されたのは、まだ真空管の時代で1945年(昭和20年)に米軍の弾道計算用に開発され、1946年にペンシルバニア大学で公開されたENIACと言われる(1942年のアイオア州立大学のアタナソフ&ベリー・コンピュータとの説もある)。ENIACは、約18,000本の真空管等で構成され、幅24m、高さ2.5m、奥行き0.9m、総重量30トンの巨大なもので消費電力は150kWもあり、設置スペースや冷却のため、ちょっとしたビル並みのスペースが必要だった。
その後、ダイオード、トランジスタなどの半導体が発明されるとコンピュータ技術は急速に進み、軍用から科学技術用、ビジネス用へと用途も拡大していった。さらに、ICやLSIが開発されると個人でも所有可能なパーソナルコンピュータへと発展していった。この連載は、「パーソナルコンピュータ(パソコン)」がテーマであるが、大型コンピュータの開発競争がそのままパーソナルコンピュータにおいても、IBMを中心に内外の大型コンピュータメーカー、パソコンメーカーが入り乱れての展開となるので、初期の大型コンピュータについても少しふれておきたい。
東芝が我が国初の計数形電子計算機「TAC」を開発
ENIACが使われることなく第2次世界大戦は終わった。戦後になって日本でもコンピュータ開発の動きが出てきた。1951年(昭和26年)に文部省は「電子計算機製造の研究」予算を計上、マツダ研究所(東芝)と東大の共同で「TAC」の開発がスタートした。ハードを東芝が、ソフトは東大が担当し、大型コンピュータを2年間で開発する計画だった。当時は、まだ計算機用の高信頼性部品がなく、ラジオ用真空管を改良し信頼性を高めた。メモリはブラウン管メモリを使用したが実用化は非常に難しかった。また、外部メモリには磁気ドラムを開発し、駆動系には洗濯機用モータを使用するといった具合。苦難の末、1953年(昭和28年)にプロトタイプの「TAC」が東大に納められた。
東芝が開発した我が国初の計数形電子計算機(東芝科学館)
「TAC」開発に携わった人々が後に「エレクトロニクス立国日本」発展に貢献
しかし、1955年(昭和30年)を過ぎても「TAC」は稼動しなかった。システムの何処に問題が有るのかさえ分からずじまいで、暗中模索が続く。当時は、パルス波形観測用としては、オシロスコープしか無く、時間軸が不安定で正確な測定ができなかったことが原因だった。その後、シンクロスコープが導入されパルスの定量的な把握が可能となったことで、問題点の改善が進み、1959年(昭和34年)に「TAC」はようやく稼動した。
この頃になると、東芝の真空管の信頼性も向上し、ブラウン管メモリも世界最高レベルに達していた。当時、最先端のコンピュータ「IBM650」が8時間かけても出来なかった計算を2時間で終了したと言う。「TAC」は3年後の1962年(昭和37年)に任務を終えたが、「TAC」開発に携わった人々が、その後、コンピュータ産業を興し、「エレクトロニクス立国日本」の発展に貢献していった。
コンピュータ業界に衝撃を与えたIBM「System/360」
コンピュータ業界に衝撃を与えたのは、1964年4月(日本では1965年4月)にIBMが発表した科学技術計算用、事務用のいずれにも使える画期的な汎用コンピュータ「System/360」だった。そしてこの「System/360」の成功がコンピュータメーカーとして後発だったIBMを「白雪姫と7人の小人」と言われるほどの圧倒的なマーケットシェアを持つ独占企業へと成長させた。「System/360」は、コンピュータ・アーキテクチャと実装を明確に区別した最初のコンピュータシリーズである。
設計責任者はジーン・アムダール氏で、後に独立してアムダール社を設立、富士通と提携した。それまでのコンピュータは、事務処理用、科学計算用それぞれ別々の命令セットアーキテクチャで作られるのが普通だったのを、命令セットアーキテクチャを統一し、全てのモデルで動く汎用機とした。様々なソフトウェアを入れ替える事により、多種多様の業務に対応できることから「360度(円の角度:全方位)」=「様々な行務に対応できる」という事で360とネーミングされた。
日本の3社が「電子計算機技術研究組合」を結成
欧米に後れを取っていた日本では、巨人IBMに対抗するため1962年7月、当時の通産省は富士通、沖電気、日本電気の3社に「電子計算機技術研究組合」を結成させた。そしてIBM以上の国産コンピュータの開発を目標としたプロジェクトに、3年間で3億5千万円の補助金を付けた。同組合は、1964年11月に「FOTNAC」を完成させ、日本電子工業振興協会に納入した。さらに、CPU部分を担当した富士通が、これを改良して独自の「FACOM230-50」を開発した。
実は、富士通は1954年10月に国産初のリレー式コンピュータ「FACOM 100」を開発している。同社が電話交換機を製造していた関係でリレーが豊富に使用可能だったことからリレーを採用したものだった。試作・実験機であり販売されなかったが、1956年にこれを改良した同社最初の商用コンピュータ「FACOM 128」を発売していた。それがあったからこそ「FACOM230-50」へと繋がったと言える。
コンピュータメーカー6社が「三大コンピューターグループ」結成
1970年代に入っても日本の汎用コンピュータ開発は、まだ欧米に比べ遅れていたが、貿易の自由化を求める声は強く、1971年4月に、コンピュータの自由化が1974年からと決定された。当時は、富士通、日立製作所、日本電気、東芝、三菱電機、沖電気が汎用コンピュータ市場に参入していたが、技術革新が速く、膨大な開発資金、技術者を必要とする汎用コンピュータ開発において各社がバラバラにやっていたのでは欧米に追い付けない状況にあった。
そこで、通産省は、コンピュータメーカー6社を集め、3つのグループにする「三大コンピューターグループ」化を図った。まず、IBM互換機路線をとる「富士通と日立製作所」グループ、ハネウェル、GEと提携する「日本電気と東芝」グループ、独自路線を行く「三菱電機と沖電気」の3グループに集約した。これらグループが結成した技術研究組合に対して、1972年から1976年にかけて約570億円の補助金が支給された。その成果として、「Mシリーズ」「ACOSシリーズ」「COSMOシリーズ」などの汎用コンピュータが発表された。
参考資料:東芝HP、シャープHP、カシオ計算機HP、東芝科学館、JEITA、社団法人情報処理学会、富士通HP、NEC・HPほか