エレクトロニクス立国の源流を探る
No.58 日本のエレクトロニクスを支えた技術「パーソナルコンピュータ」第2回
早くも1970年代に登場したパソコン(マイコン)
1970年代に入ると、汎用コンピュータにおける、日米欧のメーカー間の開発競争は熾烈を極め、わが国でもエレクトロニクスは自動車と並ぶ基幹産業として育成していく方針を取っていた。一方、パーソナルコンピュータも意外と早く1970年代には登場している。パーソナルコンピュータという呼び方は「個人のためのコンピュータ(パソコン)」と使い方を意味するが、CPUにマイクロプロセッサを使用していることから「マイクロプロセッサ(マイコン)」や、自分のコンピュータ「Myコンピュータ(マイコン)」などという意味付けもなされていた。初期の段階では、愛好家が部品を調達して作るワンボードマイコンからスタートした。
インテルの8ビットマイクロプロセッサ「i8080」登場が起爆剤に
米国では、1974年にインテルの8ビットマイクロプロセッサ「i8080」が開発され、その後「i8080」をCPUに採用したコンピュータキットが発売されたことがパーソナルコンピュータ普及のきっかけとなった。なお、インテルでは、それ以前の1971年に世界初の4ビットマイクロプロセッサ「i4004」を開発しているが、電卓用として開発が進められていたものだった。また1975年には、後にパソコン界をリードしていくことになるマイクロソフト社をビル・ゲイツが設立、「i8080」用のBASICインタプリタを発売した。
そして一般消費者向けに発売されたパーソナルコンピュータは、1975年、エレクトロニクス誌に掲載されたMITS社の組み立てキット「Altair8800」が世界最初と言われている。「Altair8800」は、キーボードやマウス、モニターなど、現在のパーソナルコンピュータでは当たり前となっているものが使えない原始的なものだった。それでも、キットで397ドルという低価格が受けて注文が殺到したという。
1976年に発売された日本電気(NEC)の「TK-80」がヒット商品に
米国に遅れること1年、1976年には日本でも日本電気(NEC)が「TK-80」を発売した。「TK-80」は、それ自体を商品として売って利益を出そうというものではなかった。マイコンの拡販を目的として、マイコンのことを理解してもらうための「トレーニングキット」だった。インテル社の8ビットマイコン「i8080」と互換性のある「μPD8080A」を使用し、キーボード、表示装置などに加え、組立て用の工具まで入ったお手軽キットだった。
NECの「TK-80」
「TK-80」を買ったユーザーは、付属の回路図を見ながらハンダ付けしていけば完成できた。「TK-80」を企画したNECの渡辺和也部長や部下の後藤富雄氏は、半導体部門のマイコン販売部に属しており、いわゆる「部品屋」だった。NECでは、「部品屋」が組立品を作ることはタブーとされていたが、社内ベンチャーのはしりの様なものだった。しかし、この「TK-80」は予想を上回る人気を呼んだ。NECが1976年に開設した秋葉原の「Bit-INN(ビットイン)」には、エンジニアや学生ばかりでなく教授、医師など様々な人々が押し掛け、自分でマイコンを作りたいと購入していった。そして、この「TK-80」の思わぬ大ヒットが、後にNECをパソコン界の国内トップメーカーに押し上げる「PC-8001」へと発展していくことになる。
「Apple II」の大ヒットがアップル社の発展の基礎を築く
1976年には、米国でアップル社がワンボードマイコン「Apple I」を発売したが、あまり人気商品とはならなかった。しかし、翌1977年に発売した「Apple II」が大ヒットし、その後のアップル社の発展の基礎を築いた。「Apple II」の価格は1,298ドルだったが、爆発的に売れ、アップル社のパソコンは、1980年に設置ベースで10万台、1984年には設置ベースで200万台を超え、莫大な利益をアップルにもたらした。アップル社は、ステーブ・ジョブス氏が中心となって起こしたいわゆるガレージメーカーだが、当時は、ガレージや、ちょっとした倉庫、物置とマイコンの知識が有れば、部品を寄せ集めてマイコンメーカーとなれる時代だった。アップル以外にも、タンディ・ラジオシャックや、コモドールなどから8ビットマイクロプロセッサ搭載モデルが発売された。
日本のベンチャー企業ソード社(SORD)が躍進
この頃、日本でもベンチャー企業ソード社(SORD)が誕生していた。ソード社は、1970年創業で、社名はSOFT(ソフトウェア)とHARD(ハードウェア)を合わせて名付けられた。創業者は、椎名堯慶氏で、1974年にi8080採用のマイクロコンピュータ「SMP80/X」を発売している。さらに、1977年にパーソナルコンピュータ「M200」を発売してパソコンベンチャーとして注目を集めた。その後も、ホームコンピュータ「M100」、「M5」、「M68」などを発売、業績は拡大していった。同社のパソコンは、任意のコマンドを組み合わせることにより独自のOSを構築する機能を持っていたことが特徴だった。
ソード社は、1980年に独自に開発した事務処理用簡易言語“PAN-INFORMATION PROCESSINGSYSTEM”(PIPS)を発表している。当時は、BASICプログラムが標準だったが、100個程度のコマンドにより簡単に関数計算やグラフ作成、データ検索を行うことが出来た。ただし、「PIPS」はソードのパソコンでのみ動作したのでパソコンの売り上げには貢献したが、後に、これが業績悪化の原因ともなってしまった。「PIPS」は、1982年に「漢字PIPS」、1984年には、16ビット対応の「日本語PIPS」へと発展していった。
また、ソードは、「PIPS」搭載パソコンの普及のため、全国主要都市にショールームとトレーニングルームを備えた「PIPS INN(ピップスイン)」を展開した。「PIPS」はIBMなど内外のメーカーからもオファーがあったが、自社ハードのみの販売に固執し、世界中に普及するチャンスを逃してしまう。さらに、1984年頃からハードウェア販売の不振や、一部新聞の「資金ショート報道」などが原因で経営が行きづまり、1985年、東芝と資本提携を結び、子会社(現東芝パソコンシステム社)となった。もし、経営がうまく行っていたならば、日本のアップル、マイクロソフトになったかもしれないだけに残念な結果である。
参考資料:東芝HP、シャープHP、東芝科学館、JEITA、社団法人情報処理学会、富士通HP、NEC・HPほか