エレクトロニクス立国の源流を探る
No.60 日本のエレクトロニクスを支えた技術「パーソナルコンピュータ」第4回
IBMが「IBM PC」でパソコン市場に参入
1981年にはメインフレームメーカーのIBMが「IBM PC」を発売し、その後のパソコン市場に大きな影響をもたらした。アメリカではアップルがパソコン市場で大きなシェアを持っていたが、IBMが「IBM PC」でパソコン市場に参入したことによって市場地図が塗り変わっていった。同時に、そのことは大・中型コンピュータからパーソナルコンピュータへ需要がシフトしていくことを示していた。さらに、1982年には「IBM PC/XT」発表。パーソナルコンピュータ市場においてIBMの存在は大きくなり、競合メーカーにとっては、独自路線で行くか、IBM互換路線で行くかの選択を迫られるようになった。
パソコン同士の互換性やソフトの互換性の無さが問題に
この頃になると、パソコン市場は8ビット機から16ビット機へ徐々に移行していった。日本国内においては、ビジネスユースとしては漢字処理という問題が常にあり、はじめのころIBM互換云々は、それほど大きな問題ではなかった。むしろ異なるメーカー間はもとより、同一メーカーでもシリーズ間で互換性が無く、パソコン同士の互換性やソフトの互換性の無さが問題となっていた。そして、漢字混じりの文書作成や事務処理には、日本語ワープロが独自の発展を遂げていった。
ゲーム人気がパソコンの需要を刺激
一方、パソコンの8ビット機は、ホビーユースのウエイトが高く、ゲーム機で人気のあったソフトをパソコンでも楽しみたいということが購入動機となるケースが多かった。1970年代後半から1980年代にかけて、ゲームセンターや喫茶店に置いてあったアーケードゲーム機やテーブルゲーム機で「ブロックくずし」や「スペースインベーダー」などが人気を呼び、若者の間でブームとなっていた。
パソコンでも同じようなゲームを楽しみたいと言うニーズが高まっていた。パソコンの場合は、メインメモリが64KB程度で、グラフィック表示能力も十分でないためゲーム専用機ほどのクオリティがなったが、それでも自宅のパソコンで様々なゲームを楽しめることは大きな魅力だった。また、自分でプログラミング言語をマスターしてゲームソフトを作ってみたというマニアも出てきた。
マニア間の情報交換を目指したパソコン雑誌が相次いで登場
8ビット機には、マイクロソフトの「BASICインタープリタ」が組み込まれていたので処理速度は遅いもの簡単なゲームソフトを自分で作るマニアも出てきた。そして、プロ並みのソフトを開発するマニアも有り、ゲームソフト開発がマニア間で広がっていった。そんなマニア間の情報交換を目指したパソコン雑誌が登場してきた。
代表的なパソコン誌としては、「月刊マイコン」(電波新聞社)、「月刊アスキー」(アスキー)、「I/O」(工学社)、「月刊RAM」(廣済堂)、「Oh!PC」(日本ソフトバンク)などがあり、書店のパソコン雑誌コーナーを賑わしていた。「月刊マイコン」は、1977年に電波新聞社が発行した日本のマイコン雑誌の草分け的な存在のもの。読者コーナー「マイコンポスト」が人気を呼んでいた。広告が多く、パソコンメーカー、ソフトハウスはもとより全国のパソコンショップが競って広告を出していた。
ピーク時には広告申込みが多く、第三種郵便物の1kg以下という重力制限を超えてしまうため広告出稿を断らなければならないほどのページ数となった。しかし、ブームが去った、1992年9月号より誌面サイズ大判とし「My Computer Magazine」と変更したが、やがて休刊となった。また、編集内容をゲーム志向に特化した「マイコンBASICマガジン」(ベーマガ)を分離し、1984年頃からはこのベーマガが人気を呼び、こちらが主役となっていった。
コンパクトカセットテープに収録したパッケージソフトも発売
「I/O」(1976年創刊)は、Input Outputを略して I/O とネーミングされたもので、始めは日本マイクロコンピュータ連盟から創刊されが、後に工学社の発行となった。当時大学生だった西和彦氏(後にアスキー創業)が編集に参加したほか郡司明郎氏、塚本慶一郎氏、吉崎武氏なども創刊に参加した。「I/O」は、投稿雑誌として人気を呼び、毎月、数多くの投稿されたゲームソフトの中から質の高いものを選んで掲載したのが受けた。BASICやマシン語のプログラムリストが何ページにも渡って掲載された。
しかし、入力の際に「,」や「:」など少しでもパソコンのキーを打ち間違えるとエラー表示となり動作しなかった。これでは、読者の入力作業が大変であり、せっかく徹夜して打ちこんだプログラムに「エラー」表示が出て動作しないということも多かった。この対策としてプログラムをコンパクトカセットテープに収録し、COMPAC(コムパック)ブランドでパッケージソフトとして販売した。投稿したプログラムの作者には印税を支払ったが、高校生でも130万円を超す印税を受け取ったマニアがいてマスコミで話題となった。
その一方で、人気アーケードゲームをメーカーに無断で移植されたものが、投稿、掲載されて権利問題が起きた。当時は、まだコンピューターソフトに関する著作権が確立されていなかったので、こうした問題が後の著作権の立法化へと結び付いていった。ともあれ、その人気に支えられ広告もたくさん集まり電話帳並みの分厚さとなった。
パソコン雑誌を愛読した学生が「エレクトロニクス技術立国」の担い手に
「月刊アスキー」(1977年創刊)は、西氏、塚本氏らが工学社から分かれ郡司明郎氏などとアスキー出版を創業して出版。そして、この「月刊アスキー」に、「I/O」、「月刊マイコン」、「RAM」を加えた4誌が4大パソコン雑誌と呼ばれ多くのパソコンファンを育てていった。これらのパソコン雑誌を愛読した学生が、技術系の大学や専門学校に進み、メーカーや研究所に就職、今日の「エレクトロニクス技術立国」の担い手となっていったのである。
誌名 | 発行元 | 創刊年 |
「I/O」 | 工学社 | 1976年 |
月刊アスキー | アスキー | 1977年 |
月刊マイコン | 電波新聞社 | 1977年 |
月刊RAM | 廣済堂 | 1978年 |
表:パソコンブームを支えた4大パソコン雑誌
参考資料:東芝HP、シャープHP、東芝科学館、JEITA、社団法人情報処理学会、富士通HP、NEC・HP、コンピュータ博物館ほか