[SSBトランシーバーを購入]

大学4年生の時、八重洲無線(現バーテックススタンダード)からSSBを搭載したFTDX-400という型番のトランシーバーが発表された。カタログスペックを見た淺海さんは、欲しくて欲しくてたまらなくなり、父親にねだって、早々に販売店にFTDX-400(Sタイプ)の注文を入れた。発表から発売までしばらく待たされたが、工場で製品が上がったという知らせを聞いた淺海さんは、大田区にあった八重洲無線の本社まで電車に乗って取りに行った。

このトランシーバーは本体だけで20kg、付属品や梱包箱をいれるとさらに重く、若くて力のあった淺海さんでも、休み休みでないと運ぶことができなかった。自宅の最寄り駅である上野毛駅から自宅までは通常徒歩10分強であったが、そのときは30分くらいかかったことを覚えている。

自宅に帰るとさっそく電源を入れ、竹竿を利用して張ったダイポールアンテナを接続するとよく聞こえた。安定度も良かった。当時のメーカー製無線機は電源投入後に独特の臭いがしたという。興味津々の淺海さんは、蓋を開けてみたところ、ボリュームも配線も、自作のラジオで使っていた部品と比べると貧弱で、「何じゃこりゃ、こんなんで大丈夫か」と思ったと話す。自作のラジオでは「通信型」などと銘打って売られていたそこそこの部品を使うようにしていたが、メーカー製品では、コストダウンのために、オーバースペックの部品を使わないのは当然のことであった。

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竹竿を支柱にしたダイポールアンテナ。

[就職する]

1968年3月、慶應義塾大学を卒業した淺海さんは、日本軽金属株式会社に入社する。3ヶ月間の工場現場実習などを含む新入社員研修期間を経て、静岡県清水市(現静岡市清水区)にあった清水工場に配属された。清水工場の社宅に入った淺海さんは、さっそく竹竿を支柱にしたダイポールアンテナを建て、FTDX-400でオンエアを開始した。

程なくすると、トリオ(現ケンウッド)からTS-510が発売された。エレクトロニクス雑誌の「電波科学」誌に掲載された、TS-510の詳細な解説記事を読んだ淺海さんは、「これは510しかない」と考え、FTDX-400を処分して、TS-510(Xタイプ)に飛びついたという。

リグの内部をいじるのが趣味になっていた淺海さんは、比較用にさらにTS-510(Xタイプ)を購入し、2台あるうちの1台のTS-510をいじくり回した。音がいいの悪いのと、ローカル局にモニターしてもらいながら実験を繰り返した。マイクにはアイワのDM51という型番のダイナミックマイクを使った。「貧乏サラリーマンにとっては高価なマイクでした。いい音を出そうと思っていろいろやっていました、本当に楽しかったです」と淺海さんは当時を思い出して話す。

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TS-510で運用中の淺海さん。

勤務先の清水工場は8時始業16時終業で、仕事場の工場と社宅が近かったため、朝は7時40分に家を出れば十分で、さらに残業が全然無かったため、夕刻は16時半には家に帰ってくることができた。そのため十分に時間があり、毎日のようにTS-510をいじっていた。

[結婚する]

1969年、淺海さんは大学時代に同じ合唱部員だった榮子さんと結婚する。榮子夫人も淺海さんの影響を受けて国家試験を受験し、電話級、電信級の資格を同時に取得、翌1970年にJR1VBSを開局している。「おなかの中の子供と一緒に受験したんですよ」と話すように、淺海さん夫婦は子宝に恵まれ、1970年に長男、1972年に長女、1974年に次男が誕生している。

榮子夫人も開局して、オンエアするようになると、淺海さんはアンテナの強化を始める。まずはローカルの友人から譲ってもらった旭精鋼製の21MHz3エレメントフルサイズ八木を社宅の屋上に設置した。その後は、モズレー製の3エレメントトライバンダーCL33に取り替えた。このCL33はブーム長が5.5mあり、人気あった同社のTA33(ブーム長4.3m)より少しだけではあるがゲインが高かったためこちらを選択したという。このとき使用したマスト用のポールは勤務していた工場で、足場を溶接してもらい登れるようにしてあった。

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CL33の設置作業の様子。ラジエーターはこれから取り付ける。

1970年代はまだインターネットは無く、DXの情報は雑誌かDXニュースシートから得るのが一般的であった。淺海さんは米国で発行されていたDXブリテン(TDXB)を購読していた。「この頃は、機械いじりはもちろんですが、DXハンティングにも熱中していました」と話すように、運用の方も熱心であった。

[SWAとの出会い]

淺海さんは、ザ・サイドワインダー・アソシエーション(SWA)に所属している。このクラブは、日本でSSBが始まった頃、技術の好きなハムが集まって結成された歴史のあるクラブで、当時は先述のJA1AEA鈴木さんやJA1ANG(故)米田さんなど、SSBのパイオニア達が、毎日7099kHzのSSBで技術情報を交換していた。

淺海さんもしばしば7099kHzを受信して、情報を得ていたが、まだメンバーになっていなかった時代、東京・四谷のホテルニューオータニで開催された忘年会にゲストとして参加する機会を得た。一アマチュア無線のクラブの忘年会を一流ホテルで行うといったことは希であり、SWAは世間一般のアマチュア無線クラブとは毛色の変わったクラブであった。この忘年会をきっかけに、その後、淺海さんはSWAのメンバーとなる。

入会後は7099kHzのオンエアミーティングに参加するようになるが、以前から幾度となくワッチしていたので、誰が出ているかはほとんど把握できていたし、会話の内容もある程度理解していたので、全く違和感なく参加できたという。メンバーの多くは、SSBの送受信機を作ったり、市販機いじったりしていたが、当時のSSBでは最先端を行っていたコリンズ社製のトランシーバーを使っているメンバーも多かった。JH1BAN(故)藤村さんなども、早い内からコリンズを使って、実に軽妙洒脱なQSOをしていた。