JA2JW 星山 陽太郎氏
No.7 転居を経験
「結婚する」
1963年、CQ誌のDXページのエディターに就任した星山さんであるが、就任直後の同年10月3日、同じ電電公社の電話局に勤務していた節子夫人と挙式を挙げた。節子夫人は星山さんと知り合う前に、ローカルの先輩に教えてもらって電話級免許を取得し、すでにJA2DPCを開局していた。その先輩と一緒に、星山さんのシャックを見学に来たのが初めての出会いだったという。
星山さんは「お互いに電信に興味を持っていたことで意気投合しました」と話す。そんなこともあって節子夫人は結婚前に電信級も取得する。結婚は就職して10年目であり仕事も忙しい時ではあったが、結婚したことで、DXページのレポート整理などに節子夫人の手助けが得られる様になった。
披露宴のスナップ。
ここで、星山さんの家族について紹介すると、節子夫人との間に1965年長男の健さん、1972年次男の公二さんが生まれた。両親がアクティブなハムであることから、2人とも自然な成り行きでアマチュア無線の道に進む。健さんは小学生でライセンスを得てJF2AYO、公二さんはJL2ONQのコールサインで開局することになる。現在は2人とも仕事が忙しく、局免局は継続して受けているものの、アクティビティの方はあまり高くないと言う。
「ラジオ番組のパーソナリティ」
1965年、日本短波放送(現 ラジオNIKKEI)が、「DXニュース」というアマチュア無線のDXに特化した月1本の15分番組を放送しており、星山さんはこの番組のパーソナリティも担当していた。毎月、東京から清水市にあった星山さんの自宅まで録音をとりに来たと言う。コマーシャルを除いた番組の実質時間は13分30秒で、星山さんはDXニュースシートなどを参考にして、DXニュースを伝えていたという。このパーソナリティを1年間ぐらい続けた。
[三重県に転居]
星山さんは、1966年から約1年間、三重県伊勢市に長期出張となった。当時の伊勢市周辺は、電話がまだ自動接続になっておらず手動の状況だった。そのため、伊勢、阿児、賢島の地域を自動化することが決まった。伊勢神宮のある特殊地域の無線工事であり、電電公社は「本社直轄工事」としてこの区間の工事を実行するため、東京本社の日比谷から監督を派遣、星山さんは監督補助として出張を命じられたのである。
その当時のマイクロウェーブの回線は、県庁所在地である津市までは開通していたため、星山さんらは津-松阪-伊勢-阿児というルートの回線の敷設工事を行った。まず初めの津-松阪間は、障害物がなかったため問題なく開通したが、次の松阪-伊勢間は途中に丘があって、直接波が届かなかった。検討した結果、中継を入れるのではなく電波を屈折させようということに決まった。
[井倉回折網]
星山さんらは、障害となった丘の上に、電電公社の通信研究所が開発した回折網(誘電体の板を伝播路に沿って並べたもの)を設置した。この回折網で電波をうまく屈折させることができ、松阪-伊勢間が開通した。回折網はその土地の名前をとって「井倉回折網」と名付けられたと言う。そして、伊勢からは朝熊山経由の阿児(賢島方面)が開通し、1年がかりで、ようやく津-阿児の全回線が開通した。この長期出張が入ったために、星山さんはCQ誌のエディターを後任のJA1DM海老沢さんに託した訳である。
丘の上に設置された井倉回折網。
長期出張中、固定シャックは清水市の自宅に置いたままだったが、移動する局の免許を受けて、「伊勢市では移動スタイルで運用を続けた」と言う。もっとも、アンテナが小さかったため、あまり飛ばなかったらしい。1年にわたるプロジェクトが完了した後は、山原無線中継所勤務に戻る予定であったが、そのまま転勤命令が出て、星山さんは1967年6月に阿児無線中継所への配属となった。そのため、母親、夫人、長男を三重に呼んで、引っ越しを行った。当然無線局についても、変更検査を受けて設置場所の変更を行い、阿児から本格運用を行うようになる。
当時の阿児無線中継所。
「60年代の無線設備」
ここで、星山さんの当時の設備に変遷について述べておこう。DXCCを完成した1958年、受信機を自作の5級スーパーから、ハマーランドのスーパープロ(BC-779)に取り替えた。この受信機は20MHzまでしかカバーしていなかったため、「21MHzと28MHzはJA1CR桑原さんから譲り受けたコンバーターで対応した」と話す。
1960年からは、連載第6回で紹介した5バンドの自作SSB/CW送信機で運用を始めた。さらに150Wの自作リニアアンプと、14/21/28MHzの3バンド用2エレキュビカルクワッドを組み合わせて運用した。木柱で作ったはしごタワーに設置した2エレキュビカルクワッドは、当時としてはまだ珍しかったローテーターで回転させ、DXハンティングに大いに威力を発揮した。
第1回オールアジアコンテストで優勝した当時の星山さんのシャック。
星山さんはこの設備を使用して1960年から始まった、JARL主催のオールアジアDXコンテスト(当時は電信部門しかなかった)に参加し、合計388局と交信し、優勝(JAトップ)を獲得することになる。賞状の他に、副賞として国際電気のメカニカルフィルターをもらったと言う。翌1961年8月のオールアジアDXコンテストにも連覇を狙って同じ設備で挑み、前年以上の408局交信したものの、結果はJA3AF局に僅かに及ばず、JAで2位となった。
自作した2エレキュビカルクワッドアンテナ。
第3回となった1962年は、優勝を奪回すべく、ファイナルを809×4の200W出力に変更し、受信機には日本製としては初めてのアマチュア無線専用受信機となったサンワのNR408をそろえた。この設備を持って挑んだが、運悪くコンテスト中に来襲した台風に直撃され、キュビカルクワッドがタワーごと倒壊し、途中リタイアを余儀なくされたという。このショックで、「その後数年間はコンテストに参加する気にならなかった」と語る。
第3回オールアジアコンテストの最中に台風で倒壊。
[500Wに増力]
1964年には、友人にSSBジェネレーターを作ってもらい送信機を取り替えた。しばらくその送信機を使っていたが、1966年にTS-510を購入した。その後、阿児に転勤になった1967年にヒースキットのモービル用リニアアンプを購入した。このアンプはファイナルが572B×2の500W出力で、チューナーも入っていた。このリニアを使って阿児で変更検査を受けたと言う。
阿児では借家だったが、アンテナの建設は比較的自由だったため、星山さんは14MHzの3エレ八木と7/14/21/28MHzの4バンドバーチカル(ハイゲイン製14AVQ)を建ててDXingを楽しんだ。バーチカルの方を主に使用し、「アンテナはしょぼくてもロケが良かったため、このアンテナでマルペロ島とも交信できた」と話す。阿児に約2年間勤務した後、1969年8月に再度山原無線中継所に転勤となり、星山さんは清水市に戻った。そのためまた局も移設することになった。
阿児で使用したハイゲインの14AVQ。右側に14MHzの3エレ八木の一部も見える。