JA2JW 星山 陽太郎氏
No.10 転職する(1)
[面接に出かける]
1969年山原勤務に戻り、1970年には榛原町の好ロケーションに自宅を建て、再びコンテストに本格参戦を始めた星山さんであるが、1972年になると、また名古屋への転勤の話が出てきた。後日知ったことであるが、先輩が星山さんを、管理機関である「名古屋無線通信部」に転勤させ出世させてやろうと考えてくれたらしい。しかし、星山さんの頭の中はDXが占領しており、出世は眼中になかった。
山原無線中継所の所長から、「なんでお前はそんなに転勤を嫌がるのだ?」と問われ、星山さんは「アマチュア無線をやりたいからです」と正直に答えた。そうこうするうちに、所長から「1973年に静岡でもポケットベルのサービスが始まり、その委託会社ができる、その会社が無線の技術屋を探しているぞ」との話をもらった。
しかし、もしその委託会社に転職した場合、電電公社を退職した後に改めて民間の新会社への入社となる。「年金も共済から厚生になるし、そして給料も果たして電電公社みたいに昇給しないかもしれない」、という不安があった。さらに、当時の星山さんは家を建てたばかりだったため多額の借入金があった。それでも「絶対に県外への転勤がない」、「電電公社の委託会社だから給料もそんなに悪くはないはず」と勝手に判断し、星山さんは、委託会社の準備室に面接に出かけた。
[転職が決まる]
星山さんを面接した準備室の室長は、後にその会社「静岡通信サービス株式会社」の専務に就任した山本さんで、元は電電北海道のNo.2のエリートだった。出身が清水市という理由等でこの委託会社に転進していた。面接の結果、一発合格となり、山本さんから「サービス開始は3月末だが、それまでに準備が一杯ある。準備室に無線の専門家がいないから、なるべく早く出て来て欲しい」と言われた。さらに、「給料は電電公社より少し上げてくれる」との話しを聞いて、星山さんは転職を決断した。
星山さんは、さっそく節子夫人と山原の所長に転職決定を報告した。しかし、親友にも相談せず独断で転職を決めたので、同僚や先輩からは、電電公社退職決定の当初は「バカ!」の大合唱だったと言う。星山さんは、「私が年寄りになる頃は、日本もスウェーデンみたいに暮らせるようになっているはず」、と啖呵を切ってごまかした。しかし、「諸先輩、同僚達からの将来に対する心配の電話は嬉しかった」と話す。
転職の挨拶状。
[転職する]
実際に採用が決まると、「すぐに来てくれ」という話になり、1973年2月、面接試験から1ヶ月も経たないうちに、星山さんは電電公社を依願退職し、静岡通信サービスに入社した。新しい職場は、静岡市追手町の読売新聞静岡ビル一室にあった。社員数は15人程度で、技術系は東海電波管理局のOB2名が参加予定であったが、2月時点での技術者は星山さん一人だった。「技術の準備は何もやってないけど頼むぞ」と指示されたが、具体的な指示がなく、何から手をつけたらよいのかも分からなかった。そのため、東京にあった先輩のポケットベルの会社まで勉強に出かけた。
その結果、技術の仕事の基本はポケットベル受信機の技術的事項全てという事が分かり、星山さんは、受信機の仕様書作りから始めた。仕様書作りの次には、機器購入手配、機器の受入試験、ポケットベル番号交付の手配等を行った。3月の営業開始まで全然時間がなかったが、何とか1973年3月30日から販売を開始することができた。販売と言っても端末は全てレンタルのため、「取りに来てください」という威張った商売でしたと話す。
静岡通信サービス株式会社の開業記念式典。
在庫が無いときの注文に対しても配達などは行わず、「次の入荷日は○○日ですので、その日に取りに来てください」とお客様に伝えたと言う。そんな商売のやり方でも、当時ポケットベルには大きなニーズがあった。営業を始めると契約数はうなぎ登りに増え、会社はサービスエリアの拡大と共に、次々と県内各所に支店、営業所を設立していった。前述のように、受信機はすべてレンタルだったので、星山さんの仕事は、加入者管理と故障修理が主なものであった。
[ポケットベルの歴史]
ここで、ポケットベルの歴史について簡単に説明すると、「ポケットベル」とは現在のNTTドコモの登録商標だが、一般的には、電話番号を持った小型の無線受信機を、電話から呼び出すことができるシステム全体のことをいう。呼び出し方法は、当初は単音だけ、その後は音色が替えられるようになった。やがて数字まで送れるように進化していき、後年にはカタカナや漢字まで表示できる機種も発売された。
歴史的には、アメリカのデトロイト警察、クリーブランドの病院で1921年に呼出に使った「ページング・サービス」が始まりとされる。これは音声呼出であった。信号での呼出方式は1958年から始まったとされている。日本では1968年、電電公社によって150MHz帯を使用した東京23区内でのサービスが始まった。複数の電話局等に送信機が設置され、4種類のトーンをFMで変調し、250Wという当時としてはハイパワーで送信した。
電電公社と委託会社の守備範囲については、送信ならびに交換システムは電電公社が受け持ち、受信機の調達(指定メーカーからの購入)、保守、販売、料金収納等のお客様管理は委託会社が受け持つこととなった。1968年4月、初めてのポケットベル委託会社として「日本通信サービス株式会社」が設立された。続いて大阪市に近畿通信サービス、名古屋市に中部通信サービス等、次第に全国に普及していき、1973年に星山さんが就職した静岡通信サービスが設立され、最終的には全国で16社の委託会社ができた。
150MHz帯アナログで始まった電電公社のサービスは、1978年に280MHz帯の200ビットデジタル(FSK)になり、さらに1987年には400ビット、1989年には1200ビットに高速化した。一方、1987年秋にはNTTドコモ(電電公社から移動体通信分野が独立)の独占サービスだったポケットベル事業に、東京テレメッセージ、静岡テレメッセージなどの新規参入事業者が現れ、これらテレメッセージ各社がアメリカのポケットベル方式(POCSAG)を採用したのに併せ、NTTドコモも各種のデータ伝送、文字表示が可能なFLEX-TDを280MHz帯でサービスした。
1995年に発売されたポケットベル受信機の「コムD」。電話番号を4つまで持てる。呼び出し音を自由に音色変更できるなどの特長がある。
1990年代には、手軽な連絡手段として一般個人にも急速に普及して行き、最盛期の1996年には1000万件を超える加入者があったと言われる。しかし、その頃から、高額であった携帯電話の料金が次第に低下していったこともあり、ポケットベルから携帯電話への急速な移行が始まった。NTTドコモでは、2001年、ポケットベルをクイックキャストという名称に変更してサービスを継続したが、契約数の減少が続いたため、2004年に新規契約の受付、並びに機種開発を終了し、2007年3月31日をもって、全てのサービスを停止した。