[MARSからAMRS]

KA局についてもう少し触れると、戦後、日本にやってきた米人ハムは当初J2~J7、昭和24年(1949年)からはJA2~JA9をプリフィックスにしていたが、日本がアマチュア無線を再開してJAを使うようになったのにともない、KAに代えている。JAにしてもKAにしても日本のアマチュア局として認められていないため、米人ハムはMARS(軍用アマチュア局)の名のもとに電波を出していた。

米軍ハムの団体MARSのマーク

JARLは郵政省に対して善処を要請したが、米軍には米軍なりの世界的な制度をもっており、容易に解決できなかった。一方、米国のアマチュア無線団体ARRL(米アマチュア無線連盟)がKA局をアマチュア無線局のリストからはずすと、名称をAMRS(軍用補助局)と代えて存続した。その背景には米軍の圧力もあったが、わが国の電波行政の混乱もあった。

[変転する電波行政]

日本の電波行政は第2次大戦前後に目まぐるしく代わった。昭和18年(1943年)に逓信省は軍事一元化を目的に運輸通信省となり、外局として通信院が発足、翌年にその傘下に電波局が発足している。終戦の20年(1945年)には通信院は内閣の所管に一時的に移ったが、翌年には再び逓信省が復活して、以上の業務は集約される。

さらに、24年(1949年)には逓信省が電気通信省と郵政省に分離され、電波局は電気通信省の外局である電波庁となっている。翌25年、いわゆる「電波三法」の施行にともない電波庁は廃止されるとともに、それまでの無線電信法もなくなり、電波監理の行政は電波監理委員会に移行される。
改変はさらに続き、昭和27年(1952年)には電気通信省は日本電信電話公社となり、これにともない電波監理委員会が廃止され、郵政省の電波監理局に行政移管となる。長々と行政の変遷について触れたのは、戦後のアマチュア無線の再開が遅れたのは、このような改変に次ぐ改変があったことも原因の一つといえそうだ。

KA局は日本国内ではアマチュア無線局とは認められていないため、再開後もKA局との交信は禁止されたが、行政的な解決は最後までできず、KA局の自然消滅まで待たなければならなかった。「KA局問題」といわれているその詳細は、この連載の「沖縄のアマチュア無線の歴史とともに」に詳しく触れている。ちなみに、このような理由からKA局のQSLカードは希少価値をもっている。

[湘南アマチュア無線クラブ]

稲葉さんの地元には湘南高校の無線クラブ「湘南クラブ」があったが、アマチュア無線再開とともに地域クラブへと発展的に解消、JARL登録クラブとなった。その時に稲葉さんは初代会長となっている。「高校時代のクラブには市川洋(JA1AB)さんがいたと聞いている」と言う。稲葉さんの記憶では「昭和28年(1953年)ころ」である。

市川さんも30名の予備免許リストに入った方であるが、本免許までの行動がすさまじい。予備免許が下りることを知ると電波監理委員会(現在の総合通信局)に出かけて、直接予備免許通知書を受け取った後、予め用意してあった工事落成届を関東電波監理局に提出。そこで「本免許までは電波を出してならない。検査のために試験電波を出すならば試験電波発射届を出すように」と言われ、その場で届を出している。

試験電波発射ができるとなった市川さんは送信機に電源を入れ「試験電波発射中」と電波を出したが、うれしさのあまり「ばんざい」と叫んでしまった、と言う話しはよく知られている。本免許は8月27日。この時も直接受け取りに行っている。ちなみにこの日付での本免許は全国で6局だった。

[サイドワーク]

昭和31年、稲葉さんは現在住んでいる場所に土地を求めて家を建てる。25歳である。米軍勤務の給料はよかった。同年代の男性の月給が8千円程度の当時1万2千円位をもらっており、加えて航空母艦の上層部など高所作業をする時には危険手当がついた。「私は知らなかったが母が給料を積み立てていて、家を建てる資金が貯まっていた」と言う。ついでにいうと、航空母艦など船舶の高所での作業をこなしていたため「お蔭で高い所は全然怖くなくなった」と言う。

国産第1号の白黒テレビ-シャープのホームページより
米軍の友人からはたびたび「稲葉、米国では一人で仕事をやっていく自信がついたら適当な時期に独立するのが普通だよ」と言われていた。稲葉さんもその時期をうかがっていた。すでにそのころから米軍は週休2日制であったため、土曜、日曜の休日と平日の勤務が終わってから、稲葉さんはお兄さんの店先を借りて「湘南テレビサービス」の名を付けテレビ受像機の修理サービスを手がけていた。米国で言うところの「サイドワーク」である。

わが国の民間ラジオ放送は昭和26年(1951年)に始まり、さらに28年(1953年)にはテレビ放送が開始された。それに伴いラジオ受信機を自作して販売していた人のなかにはテレビ受像機を自作して販売した人もいた。高価なメーカー品に対抗して、キットを売り出す企業もあり、多くがそれを利用した。稲葉さんは自作しなかったが修理を手がけた。昭和29年(1954年)7月ころであった。

昭和28年ころの市川さんのシャック-- アマチュア無線のあゆみより

[独立]

昭和31年、6年間の米軍勤務を辞める。10月27日、勤め始めた同じ日であった。勤めを辞めた稲葉さんは、誘われていた「山七商店」に勤めることにした。「山七商店」の持丸七郎さんとは、米軍時代からつながりがあり「稲葉は米軍に居ながら、無線関係の知識があり修理も得意な男だ」と目をかけてくれていた。