[煙突に登る]

IGY(国際地球観測年)への協力、災害時の非常通信運用などの理由により、JARLは独自の局を持つ必要があった。50MHzで何度も交信したことのあるJARLの原さんからの要請を受けて、稲葉さんはJA1IGY局や中央局JA1RL局立ち上げの支援を行った。「自分のもっているジャンク物を提供したり、また、山七商店から購入してもらったりした」と当時を語る。当時原さんはJARL IGY委員としてIGY観測のJARLの責任者であり、奮闘を続けていた。

そのころ三菱重工に勤務していた原さんの仕事場は横浜にあり、東京から通勤していた。「そのため、仕事が終わった夕方に横浜で原さんと落ち合い、飲みながらよくアマチュア無線の話をしていた。したがって、JARLの活動については十分に理解していたし、活動の表には出なかったが、いろいろな面で積極的に協力した」と稲葉さんは言う。

日赤本社に無線局を立ち上げた時のことを現在JARLの会長職にある原さんは鮮明に記憶している。「中央局を設置する時、戦前から建っていた40mの煙突を利用して逆Lのアンテナを取り付けることになった。誰もが尻込みしているなかで、煙突に付いている梯子を稲葉さんがひょいひょいと登り始めた。皆あっけに取られて見ていた」と言う。

[ソ連人工衛星受信]

IGYの電波伝播調査、なかでも異常伝播については50MHzのVHFハムが積極的に協力し、日本のハムの能力の高さを世界に示したといわれている。一方、米国、ソ連はIGYの一環としてそれぞれ人工衛星を打ち上げ、地球観測をすることになった。衛星から送られてくる信号は108MHzに決められていたため、JARLも、また、全国のハムの何人かは、108MHz受信の準備を進めた。

ソ連の人工衛星「スプートニク1号」NASAより

ところが、10月4日予想に反してソ連が前触れなしに衛星を打ち上げ、しかも信号の周波数は20MHzと40MHzであった。JARLも一部のハムもその情報を知って慌てて、受信機を改造して受信することになった。JARLの本部局は、この日夕方の6時45分になって、ようやくソ連の人工衛星「スプートニク1号」の信号受信に成功する。

実は、稲葉さんもこの信号を受信している。「折りよく、修理で預っていたハリクラフターのSX-73が手元にあり、それを使って受信できた」ただし、受信できたのは8日になっていた。「結婚式の前の晩であるのでよく覚えている」と今、さらりと話しているが、実際は大変だったらしい。その大変さが2日後の10月10日付けの朝日新聞に紹介されている。

ハリクラフター製の受信機

[近所で有名に]

JARLは東京天文台からの要請を受けて、全国のハムに受信と、その報告を依頼していた。稲葉さんは打ち上げられた初日から受信に挑戦していたため、多忙を極め結婚式の準備もできなかった。かろうじて「8日の夜に散髪だけは済ませた」と言う。結婚式当日も「仲人にせかされながら挙式ぎりぎりまで受信した」らしい。稲葉さんの受信の記憶は「後で聞くと、受信したハムの多くが他の信号のなかに埋もれていて明確ではなかった、というが、私ははっきりととらえられた」というものである。

結婚式前の慌ただしいなかで受信に取り組んだことが朝日新聞に大きく取り上げられたため「近所で有名になってしまった」と言うが、稲葉さんにとってもこの時のことは忘れられなかった。結婚式はささやかなものであり、蓄えもない稲葉さんは「新婚旅行など出来るはずもなく、挙式から家に戻った時に当面の生活費が380円しかなかった」からである。

[ハムの仕事では食えない]

無線機製造を続けていた稲葉さんであるが「同じハム仲間に物を売ることが少々気になってきた」とアマチュア無線機の製造を止め「品質を重視するような仕事を手がけたい」と考える。先にも触れたが当時は”自作時代”であり、市販の無線機を購入するハムが増えたのは昭和30年代後半からであった。稲葉さんの事業は早すぎた。「しかも食べていくだけの仕事は他にもあった」と稲葉さんは当時を語る。米の仲間も仕事をくれた。また、そのころには交流の輪が広がっていったハム仲間も次ぎ次ぎと仕事を紹介してくれた。

[ラジオ、テレビの世界でハムが活躍]

戦前のハムや、戦後の昭和20年代、30年代に免許を取得したハムにとって、ラジオ受信機の開発は”お手の物”であった。ハムの技術力を多くの企業が求めた。ラジオからテレビに移っても同様であった。また、一部のハムは放送局に就職し、電波の”送り手”になったり、行政に職を得たハムもいた。今日、世界でも評価されている「エレクトロニクス立国」日本は、戦後のラジオ製造から始まっている。

さらに、テレビ受像機、テープレコーダー、ビデオレコーダーへと製品が代っても、その都度、これら製品の生産力は世界のトップとなった。その原点にいたのが多くのアマチュア無線家であった。稲葉さんが、さまざまな仕事を手がけているこの当時、大手電機メーカーで仲間のハムが活躍しており、稲葉さんをサポートしてくれていた。

「湘南高周波」でアマチュア無線機製造を止めた時にも、就職の面倒をみてくれたハムが何人かいた。あるハムは大手造船重機メーカーに誘ってくれた。稲葉さんは「ありがたかったが、大手企業では学歴が無い点で苦労するのではないか」と断っている。一方、かつての米軍仲間は、米人ヨットクラブや米人飛行クラブを紹介してくれた。

「彼らは無線機を使っており、その保守の仕事があるから」というのが理由であった。朝鮮戦争による特需景気は一段落していたが、日本独力による産業経済の発展が始まりつつあった。そのなかでも電子技術をもつ人材は”引く手あまた”のような状態であり、稲葉さんは「選り好みしなければ食べていくだけの仕事はある」と楽観的だった。