[カーアンテナ開発]

白黒テレビの普及が徐々に進み、ビクターも車載用テレビを販売する。ところが家庭用と異なり、移動に伴う受信障害が多く、それが課題となっていた。対策依頼を受けた稲葉さんは試行錯誤の結果、ダイバーシティアンテナを開発した。すでにこのダイバーシティアンテナは一部で実用化されていたため「実をいうとそれを参考にした」と、稲葉さんは明かす。

開発したアンテナの評価実験のためにハム仲間とともに、車に乗って遠方まで出かけたこともある。結果は好評であり、日本ビクターからは一定本数の生産依頼があり「この時は近所の家庭の奥さん方にパートとして10名ほど来てもらい作って納入した」と言う。

日本ビクターが製品化した4.5型白黒ポータブルテレビ

[CBトランシーバー]

「CBブーム」と言う言葉を知る人は少なくなったが、発祥地の米国でも、次いで日本でも一時的に需要が爆発した。CB(シチズン・バンド)は、申請によりコールサインが与えらるものの免許は不要の小出力トランシーバーで、米国では昭和20年(1945年)35年(1960年)さらに48年(1973年)前後の3回ブームがあり、それぞれ需要が急増した。

日本では、戦後しばらくして進駐してきていたGHQ(連合軍総司令部)が日本でのCBトランシーバーの活用を推進した。この結果、昭和25年(1950年)に「市民無線」の名で460-470MHz、A3/F3のトランシーバー使用が告示された。当時は、アマチュア無線再開を待ちこがれていた戦前のハムやラジオ少年達の一部が自作したが、大きなブームにはならなかった。

この時、稲葉さんは偶然にもこの「市民無線」にかかわりあった。当時、東京の神田駅前にあった「中島無線」が沖電機の商品名「テルペット」のトランシーバーを作っていた。「技術的にも製作が大変らしく、専務から手伝って欲しいと頼まれ組立て、調整を代行したことがあった」と言う。幅広いつながりをもち、頼まれたら断れない稲葉さんらしいといえる。

日本では、昭和36年(1961年)になって、米国にならって改めてCBトランシーバーの使用を解禁した。米国と異なり周波数は27MHz帯、出力は0.5W。8月の郵政省(現総務省)の検定には43メーカー、71機種の申請があり、26社の製品が合格している。この時、日本ビクターはK-125の品番で合格。

[稲葉さんの奮闘]

このころには、回路は真空管からトランジスターに替わっていたため、申請した多くのメーカーは変調がうまくいかずに不合格になっている。この時も稲葉さんはすでCBトランシーバーの技術を習得していた。前年の昭和35年(1960年)米軍立川基地に勤務し、ハムでもあったオーエン大尉から「日本でもこれからこのようなトランシーバーが使われるようになるので、研究しておいた方が良い」と、トランシーバーを渡されていた。

それが、トランジスター製の27MHzのハンデイトランシーバーであった。「このため、湘南高周波研究所では、国内規格のCBトランシーバーの開発の目安はついていた」と言う。そのころ稲葉さんはテレビ技術課の要請で映像関係の仕事をしていたが、その部門の傘下で開発を行っている。アマチュア無線のVHF機を自作し、しかもトランジスターについての知識もある稲葉さんではあったが「開発を手がけてみると最適なトランジスターがなくて苦労した」と言う。

その苦境を救ってくれたのが、林さんであった。日本ビクターの親会社である松下電器の関係会社・松下電子工業製のトランジスターの新製品サンプルを入手して提供してくれた。「高い周波数に使えるトランジスターが他に先駆けて手に入ったことが製品化につながった」と言う。

[最高性能]

合格した製品の電波形式はA3、出力は100mW。開発の主要部分は稲葉さんが専従で手がけており。2度の試作の後「外観などはデザイナーの要求に合わせて、独特な形状になったことを覚えている」と言う。検定には日本ビクターの社員と同行したが、この時の製品には他社には無い、1.2mの長いアンテナを取り付けており、問題になりかけたが「われわれも電波法を調べ、補助アンテナが許されることを知っており、最初から付けておいただけのことである」と言う。

しばらくして、メーカーが共同でCBトランシーバーの性能コンテストを行ったことがある。八丈島から電波を出して到達距離を測ったが、日本ビクター製はトップクラスの性能であった。その後、各社は米国向けの輸出品を製造したが、日本ビクターはこのモデルを参考に輸出用CBトランシーバTCR-125を製造している。

[CBトランジスターブーム]

蛇足になるが、CBトランシーバーについて触れておくと、その原型は米国の無線機技術者アル・グロスさんが、第2次世界大戦中に米軍の要請により開発した無線機というのが定説である。大阪の荒川泰蔵(JA3AER)さんは米国滞在時代に、アル・グロスさんに会い、その真空管式トランシーバーを見ている。「ミニチュア真空管を使い、極めて小さかった」と言うのがその感想である。

アル・グロスさんと開発した初期のトランシーバー。荒川泰蔵さん提供

先に触れたように、米国では戦後すぐに「シチズン・バンド」が許可され、アル・グロスさんは第一号のCBトランシーバーコールサインをもらっている。その米国での昭和48年(1973年)のブームは第1次オイルショックが原因になって勃発した。ガソリンが高騰したために、安いガソリンスタンドの情報を求めてトラックの運転手が一斉にトランシーバーを所有するようになったからである。

そのトランシーバーを供給したのが日本企業であり、大手電機メーカー、輸出専業メーカーを始め、新参入のメーカーを含めて群がってCBトランシーバーの生産、輸出に乗り出した。当時、年間600万台を超える輸出があったともいわれており、オイルショックに苦しむ日本の電子工業にとっては救いであった。しかし、ブームが去り倒産企業や大きな痛手を受けた企業も少なくなかった。