[手形が落とせない]

順調に事業が進んでいたかのような稲葉さんであるが、日本ビクターとの取引のなかで1度だけ経営危機があった。「オイルショックのあった48年のことだった」という。受注する予定であった注文が延期になってしまったのである。その時「湘南高周波」は下請に対して90日の手形を発行していたが、それが決裁できなくなってしまったのである。

金額は211万円。当時としては少なからぬ額である。その時に救ってくれたのは取引していた銀行の鶴見支店。心配してやって来てくれた担当職員は、稲葉さんと日本ビクターとの取り引き内容を聞き、先端技術の開発で貢献していることを知る。「土地、家屋はすでに担保物件になっている。稲葉さんの頭脳を担保にします」と言ってくれた。

その時に融資してくれた額は400万円。それを契機にどういうわけか業績は上昇を辿り、それまでの有限会社を株式会社に替えている。「創業して15年目の危機であったが、それ以来、資金の心配は無縁になり、銀行からは借りて欲しい、といわれるまでになった」と言う。その時に救ってくれた銀行の担当者とは定年退職後の今でも親しくしている。

海洋科学技術センターの前でカメラを担ぐ稲葉さん

[海洋探査事業]

昭和55年(1980年)日本ビクターのレコード関係の技術者の一人から、稲葉さんに「緊急に助けて欲しい」と連絡があった。内容は「海洋技術センターに勤めている大学時代の同級生が、ビデオカメラの調子が悪く研究機材が完成せず、船の出航に間に合わなくなりそうなので早急にみて欲しい」というものであった。海洋科学技術センター(現独立行政法人海洋研究開発機構)は、昭和46年(1971年)に認可法人として発足し、その後、深海を含む海洋調査研究を広く行ってきた組織である。

本部は横須賀にあり、稲葉さんの会社から1時間ほどで行けるので駆けつけると「ビデオカメラメーカーに修理を依頼したところ、スーツ姿の社員が来て機器のことは何もわからずに帰った。次いで来たのが、ペンチをぶら下げた電気工事士のような的はずれの男でまったく話にならなかった」と怒っている。稲葉さんはビデオを回収して持ち返り2日ほどで組立て直して出航に間に合わせた。

[機器納入・研究機器開発事業]

このようなことが契機となり、同センターの契約課と「機器納入・研究機器開発業者」として正式に契約することになった。それを機会に稲葉さんは社名を「湘南」に改め、日本ビクター特約店の仕事は事務を担当していた長女に任せる。それ以来、海洋科学技術センターの仕事は約25年間も続くことになり「それほど長く仕事をすることになると思わなかった」と稲葉さんは回顧している。

この海洋科学技術センターは、日本における最高レベルの海洋研究の組織であるだけに、大学や研究機関から派遣された研究者や、大企業からの出向者などそうそうたる専門分野のメンバーが集っている。それだけに、電子機器の知識をもった人はほとんどおらず「機器の開発や既存の機器との組み合せなどの経験をもつ人は少ない」また「ライバル企業の社員、同じテーマをもつ研究者同士のために情報をお互いに公開しない。横の連絡が悪いように思えた」と言う。

海洋調査船「かいよう」をバックに。右が稲葉さん

[ビデオ関連の開発]

自由な立場である稲葉さんの活躍の場はそれだけに貴重であった。「持ち前の好奇心、探求心から、ビデオ関連でいろいろと提案した」と言う。当時、わが国唯一の深海潜水船である「しんかい2000」のビデオシステムにはベータⅡが使われていた。「ところがその解像度はあまりにも悪く、まず観測用の船外カメラの改良と、VTRは当時放送用に使われていた4分の3インチに代える提案をした」と言う。

その後、S-VHSビデオが開発されることを知り2時間の録画が可能で、Y(輝度)C(色)分離記録で画像が鮮明なS-VHSの利用を提案し、映像記録の標準ビデオに採用されることになった。その後、光の射さない深海での撮影用照明装置、深海用ストロボ、暗視カメラ、水中顕微鏡などを次々と開発することになる。「水中ビデオ顕微鏡はわが国に一台しかないものと思う」と言う。

[海底地震計/ガンマー線測定]

映像分野だけでなく、海底地震計や採水装置の開発にも携わっている。地震計は船から目的地点の深海に投下し、1カ月程度データを記録した後、観測船からの信号で地震計を台座から切り離して浮上させる。「この操作がうまくいかないとすべてが失われてしまう。そこで超音波により、海底の切り離し装置を操作させる方法を提案した」と言う。これらのシステムの改良・開発は稲葉さんの得意の分野であった。

深海撮影用の高感度カメラ --- 海洋科学技術センターホームページより

また、ガンマー線の測定についても、放射線測定手法を稲葉さんは米軍勤務時代に手がけた経験から、測定装置の製品化については専門研究者と意見交換。この稲葉さんが製作することになった「測定器は同センターが紹介してくれ、多方面に販売できた」と言う。このように海洋関連の仕事について、稲葉さんの米軍勤務時代の知識、映像技術は日本ビクター時代の経験が役に立ち「これほどまでに信頼されるようになると思わなかった」と言うほどの信頼を得ている。

もちろん、稲葉さんが開発した機器は、同じような開発メーカーの機器と競合することもあり、厳しい検査の結果を経て採用されることが多いが、稲葉さんの試作品は他社と異なっていた。「日本ビクターの機器開発を手がけていた時代に"試作は本作"と教えられていた。試作品でも専用のプリント基板を作り、表面印刷まで行い機能、性能はもちろん、完璧な製品とした」からである。