戦前の信越地区での免許第1号は長野県諏訪郡の宮澤友良(J2CC)さんであった。この当時、東海・北陸・長野県がJ2エリアであったことはすでに触れたが、宮澤さんのCCはその広いエリアにあって、三重県四日市市の山口喜七さんのCBに次ぎ2番目の早さでもある。宮澤さんは明治37年生まれ、昭和5年の5月に免許を取り、当時は関谷病院のX光線科に勤務していたが、ほどなくして東京に移り、日本無線に勤務し、J1GDに変わっている。さらに、戦後にはJR0DDVを取得している。

宮澤さんの約1年半後に取得した林太郎(J2CG)さんは明治38年生まれ、有力地場産業の生糸の製造業を営んでいた。宮沢さんと同じ村の人であり、お互いに切磋琢磨してのアマチュア局の開設だった。昭和5、6年当時に同じ村から2人のハムが誕生するあたりはいかにも教育県で知られる長野県らしいといえる。林さんはJARLの活動にも熱心であり、昭和6年(1931年)に名古屋市で開かれたJARLの第1回全国大会、8年に東京で行なわれ第2回大会に参加している。

北澤俊三(J2CI)さんは大正2年生まれ、日大工学部時代に免許をとっており、当時は19歳だった。村澤繁雄(J2CT)さんは免許取得日は昭和5年11月と早いが、これは「電話局」での免許であり、コールサインは昭和9年にもらっている。石井秀一(J2DK)さんは昭和9年に大阪でJ3GDを取得した後、長野に移り、その後新潟でJ6DBのコールサインを持ったものと推定されている。

当初、長野県の戦前のハムは以上の5人と思っていたが、長野市在住で戦後免許をとられた岡田久太郎(JA0AO)さんによると「戦前にHCの堀内さんという方がおられた、と聞いている」という。改めて調べてみると、プリフィックスはJ2であるが、東京、横浜に住んでいた堀内安(J2HC)さんであることがわかった。堀内さんは明治44年生まれで、昭和5年4月22日に免許を取得。当時は東京帝大の電気工学科の学生であった。卒業後、富士電機製造に勤務し研究課に所属したが、昭和11年4月21日に局を廃止している。やはり当初は「電話局」の免許であった。

一方、新潟県では西巻正郎(J6CE)さんが第1号であった。西巻さんは大正3年生まれ、長岡高等工業の生徒であった昭和6年7月に取得し、当時18歳であり若いハムとなった。斎藤政(J6CN)さんは19歳。「宮井ブック」では職業欄に記載がないことから類推すると、あるいは浪人生であった可能性がある。

JARL新潟クラブ創立50周年記念の「JARL新潟クラブの誕生とその前後」は、今のところ唯一の戦前を語っている資料である。そこには、小田荘六(J6CX)さんと、西丸政吉(J6DK)さんの二人の略歴が紹介されている。また、記念誌を作るに当たって資料を提供した新潟市在住の吉成正(JA0AW)さんは、この二人についてさらに細かい記録を残している。

「JARL新潟クラブ」の創立30周年記念新年会が昭和53年に行われた。前列左から小田荘六さん、西丸政吉さん、中村義雄さん、2列目中央が阿部功さん、後列左から2人目が小林勇さん。

それによると、小田さんは明治38年(1905年)生まれ、昭和3年(1928年)、新潟県庁警察部保安課に勤務、昭和6年3月私設無線電話施設願を提出。その年の12月2日に「電話局」が免許され、呼出符号「小田壮六」で開局した。コールサインJ6CXとなったのは昭和9年の2月だった。さらに昭和11年の12月にはJ2NWとなるが、そのへんの経緯についてはこの連載の2回目で触れたとおりである。

昭和12年には56MHzで佐渡島と新潟間の60Kmの交信に成功したという。56MHzでの交信では、昭和15年に東京の森村喬(J2KJ)さんと神奈川県逗子の渡辺泰一(J2JK)さんが約50Kmの距離で達成した記録がある。小田さんはそれより3年前に記録を作ったことになるが、残念なことに正式報告をしていなかった。なお、森村-渡辺さんの交信のあらましは、森村さんのハム生活を描いた連載「あるアマチュアOTの人生」で紹介している。ちなみに、大阪の櫻井一郎(J3FZ)さんは一方的な送信だけながら約100Kmの記録を作っているが、その時期は昭和10年頃と推定されている。

小田さんはこの体験を生かして、昭和13年(1938年)7月に佐渡島白瀬村から8mバンドで、新潟県庁からは6mバンドを使ったクロスバンドによる県警通信施設を完成させている。この時には「八木・宇田アンテナ」の開発で知られている宇田新太郎・東北大教授が技術援助のため訪れている。また、同じ年には全国初のパトロールカーに小田さんが設計した通信機が搭載され、パトカー2台と水難救助艇1隻が県庁と直接交信できるようになった。

林太郎さんが作られた初期の頃の自励送信機---電波実験社発行の「日本アマチュア無線外史」より