[レインボーグリルへの参加] 

庄野さんが免許を取得したころのアマチュア無線は、戦前の最盛期を迎えていたといっても良い。鹿児島の堀口文雄(J5CC)さんが、日本で初のDXCCとWASを完成し、続いて東京の大河内正陽(J2JJ)さんがDXCCを得たのが昭和13年(1938年)であった。ちなみに、堀口さんは2年後の昭和15年(1940年)にDXCCやWAZを達成している。昭和13年の雑誌「無線と実験」5月号では「一家に一台備えよラジオ」の標語が掲げられるなど、無線通信による情報の重要性が広がり始めていった。

大河内さんは平成13年11月の「レインボーDX会」に元気に出席された。

ハムになった庄野さんは、JARLの集まりなどで徐々に先輩達と交流するようになっていく。昭和13年(1938年)の秋、庄野さんは日比谷公園の斜め向いの郵政ビル地階のレインボーグリルで開かれた、JARL関東支部のミーティングに参加する。この集まりについて庄野さんは「井上均(J2LC)さんがその当時の研究内容を賑やかに報告された」と最近の「Rainbow News」に記している。

JARL関東支部は、当初ミーティングを半田成一郎(J1DM)さんや柳瀬久二郎(J1DH)さんの自宅でやっていたものの、会員が増えるにともない外部に場所を求めざるを得なくなった。その結果、昭和5年(1930年)からレインボーグリルを使うことになったが、戦後、そのいきさつについて矢木太郎(J1DO)さんが「Rainbow News」で解説している。

それによると、会員の誰かがレインボーグリルと交渉した結果「毎月会合をしていただけるなら2円の定食を半額にしましょう。閉店時間も9時ですが30分程度延びてもかまいません」ということになり、しかも「一流レストランでもあり会員の誰もがすぐに賛成し、その後ここがミーティングの場所となった」という。

[大正時代の無線通信] 

わが国のアマチュア無線は、昭和2年9月に9局に免許された時から始まった。大正時代末にはアンカバー交信が行なわれていたが、それ以前の無線通信はどうだったのか。ここで、わが国の無線電信の歴史をざっと眺めてみたい。離れた場所と連絡が取れる有線の単線式電信機は1837年にモールス(米国)によって発明され、日本には1854年、よく知られているように米国のペリーが持参し、将軍に献上している。

余談になるが、モールスの前に英国のフランシス・ロールズは1816年に複線式の電信機を発明し、英海軍に提案したものの採用されず、同国のチャールズ・ホイストーンの努力の結果、実用化されたといわれている。モールス電信機はモールス符号で知られているように、同時に点と線の符号を開発して取りいれたのが特徴であり、いわばハード、ソフトの両面での成果がその後の普及の鍵となった。

国内に話しを戻すと、電信網の構築が始まり、明治2年(1869年)に東京、横浜間に電信線が敷設されている。一方、電話は1876年にグラハム・ベル(米国)によって発明されると、2年後の明治11年には早くも国産の電話機が誕生した。しかし、電信網がこの年には国内に整備されたのに対し、電話は時間がかかり、ようやく明治23年(1890年)に東京、横浜間に開通している。

一方、ワイヤレス通信のできる無線は1895年にマルコーニ(イタリア)によって開発され、2Kmの通信に成功したといわれている。マルコーニは1897年、英国にイギリス・マルコーニ無線電信会社を設立、米国にも子会社を設置した他、世界各地に海岸局を設け、船舶に自社製の無線機を普及させようと考えるなど事業欲も旺盛だったらしい。

わが国では逓信省が明治29年(1896年)から無線電信の研究を始めており、翌々年には逓信省電信研究部が東京・月島と約1.8Km沖の船舶との通信に成功している。そして、無線通信の次の課題である音声による無線通信である無線電話は、実はわが国によって開発されている。

[鳥潟博士世界初の無線電話開発] 

世界初の無線電話TYK式の開発である。当時、電気試験所に勤務していた鳥潟右一、横山英太郎、北村政次郎の3人は、火花式送信機ながら安定した周波数の連続波の発信に成功し、マルコーニ、ブランリー(フランス)、フェッセンデン(米国)、フレミング(英国)などが挑戦して達成できなかった安定した音声無線通信に成功した。TYKは3人の頭文字を取って名付けられた。

鉱石検波器は鳥潟博士によって発明された。その後商品化された各社の製品。

開発は大正元年(1912年)。2年後には三重県の鳥羽、神島、答志島間で実用化実験を行い、さらに、2年後には世界初の無線公衆電話事業が開始されている。鳥潟博士は明治42年(1909年)に鉱石検波器を発明していることでも知られ、TYK無線電話の開発を知ったマルコーニは鳥潟博士をマルコーニ社に招き、公開実験を依頼している。

TYK無線電話が開発された1912年には、3極真空管の増幅作用が発見されるなど、急速に真空管技術が向上していた。TYK無線電話は複式瞬滅火花式の発振を取り入れていたが、やがて真空管が発明され、真空管式無線電話にとって代わられていくことになる。それでも第二次世界大戦の頃まで使われていた。

瞬減火花式送信機 JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より

鳥潟さんは秋田県生まれで、東京大学を首席で卒業したといわれる秀才。本来の「右市」の名を「何事でも右に出るもの無し」を願って「右一」に代えたといわれるほどの意欲的な人であったらしい。大正9年(1920年)、38歳で電気試験所の所長に就任したことでもわかる。ところが大正12年に41歳で亡くなった。誠に惜しい人を亡くしてしまったことになる。