JA1AN 原昌三氏
No.8 苦しかった再開(2)
待望の局を立ち上げた私はもっぱら50MHzバンドで交信した。昭和28年の始めごろまで、このバンドを運用していたのはわずかに3局程度であった。したがって、なかなか応答がない。何とか、盛んにしようとレコードをかけて音楽を流しっぱなしにしたり、柱時計の中にマイクロホンを入れたままにしたりした。
また、この周波数を利用して将棋を指したこともあった。このバンドを使っている人もいることを知ってもらいたかったからである。しかし、なかなか増えなかった。そもそも、50MHzバンドの領域が分からない。私もレッヘルワイヤーで測ったものの自信がなかった。知り合いの中には、36MHzで電波を出しながら「CQ 50MHz」と呼び続けていた例もあったほどである。私は自局の運用の一方で、相変わらずJARLの事務所にも出入りしていた。
50MHz帯は当初あまり利用されなかった。その後、利用が始まり、自作のハンディ機までが登場するようになった。
ついでに、JARL事務所の変遷について触れておくと、戦後、東工大の大河内研究室でスタートした後、丸ビル、銀座1丁目、駿河台下、巣鴨西丸町そして、現在の場所へと移転した。運営費難から安い場所を探しての転居であった。CQ誌発行の苦しさについては既に記したが、JARLそのものも会費では運営できなかった。
戦前からのしきたりで、会費を一度払うと会員となり、その後会費を払わなくとも会員資格は残り、JARL NEWSは常に送られる仕組みであった。しかも、会費の徴収は地方支部がミーティングなどの機会に集め、支部が6割を取り、残りを本部に送ってくることになっていた。したがって、いつ本部に送って来るか分からない。したがって、本部はいつも資金難であった。
昭和27年に私は企画係となったのを機会にこの問題の解決に乗り出した。会費をJARL本部が直接本人から受け取り、本部が8割を取り、2割を支部に渡すようにした。その代わり、QSLカードは会員に対して無料で転送することにし、専従職員を採用して事務の増加に対応する、という案を提唱した。
JARLの運営は戦前から米国を参考に一部の人のボランティアで行われており、夜になると、好きな人が集まりQSLカ-ドを分けたり、JARL NEWSの発送を行っていた。しかも、交通費は自弁であり、日によって集まる人数も異なり、仕事の計画も立てにくかった。
しかし、私の改革案は当然のことながら周囲からは猛反対された。支部を弱くし、中央集権を画策している、と各地から反対の声が高まった。その中で私は主張を覆さなかった。今後の運営を考えると私の考えは正しいとの信念を持っていたからであった。
1年後ようやくこの問題を審議する理事会が開かれることになった。昭和30年9月、大阪の朝日新聞社で開かれるJARL総会の前日である。土曜日の午後から始まった会議は翌日の午前4時までかかって結論を出した。最初は反対者が多かったが、最後には渋々ながらも改革案を認めてくれた。
しかし、その日のJARLの総会では結論が出ず、結局、本部に「定款改正委員会」を設けて検討し、それを理事会で審議して決定することになった。その結果、ようやく私の案が通り、同時に3カ月以上会費を滞納した場合は、自動的に会員資格を失う事も決まった。