7MHzアマチュアバンドに出ている中国の海外向け放送の周波数を変えてもらうため、私は中国の郵電部の責任者と2回ほどお会いし、「国際的には,アマチュアバンドでは他の業務電波を出さない取り決めである」ことを説明し折衝を行なったが、アマチュアバンドでの放送が困る理由を良く理解してもらえない。放送は、郵電部よりも軍部が握っており、交渉は長引いた。中国は、7MHz内で13波の海外放送を実施。これに対して、当時のソ連(現ロシア)が放送を妨害しているのが実態であった。いわゆる「中ソ論争」華やかな時代であり、両国は敵対関係にあった。

もっと中国にアマチュア無線を普及させ、放送がいかに妨害を与えているかを身をもって知ってもらおうと方針を変えた。そのためには、アマチュア無線がどのようなものであり、無線機はどのようなものかを知ってもらうことが必要だった。日本の無線機メーカの協力を得てVHF、UHFの通信機を3年間にわたり約200台寄贈、子供たちの教育のためにも普及させて欲しいとお願いした。

その結果57年に中国のアマチュア無線が再開されるとともに、徐々に放送も中止してくれた。実に、11年もかかった交渉であったが、妨害電波調査のため全アマチュアが電波を止めるという画期的なことがあった。46(1971)年1月18日22時から翌5時までであり、7MHz帯の交信は見事になくなった。全ハムの協力ははうれしかった。今後、このようなことは再びできないと思う。

7MHz侵入(妨害)電波調査の様子。各地の電波監理局は一斉に7MHzの状態をスペクトラム記録装置でチェックした。JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より。

「養成課程講習会」は41年3月から始まった。その後、全国各地で活発に行われ受講者の数も増え始めた。と、同時に問題も増え始めた。講習に当たる講師のご努力には頭が下るが、熱心さのあまり試験時に受験者に間違っている解答を指摘してしまうケースが生じたり、後には不正が発覚したりした。51(1976年)には、郵政大臣より養成課程講習会の改善警告をいただくことになる。

アマチュア無線技士養成課程講習会は、ハムの増加に大きな役割を果たした。東京にはJARLハム教室が常設された。JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より。

当時は先輩のアマチュアが個人的に受験者を指導している場合も多かったため、受験者かわいさのあまり、つい受験に際し親心を出してしまうことがあった。問題解決のため、やむを得ず直接たずさわる担当をJARLの職員のみとし、万一不正があれば即免職にできるようにした。

40年代には、アマチュア無線業界は拡大を続け、46年(1971年)にはアマチュア無線機器メーカーのほか、アンテナ、部品メーカーなどにより日本アマチュア無線機器工業会(JAIA)が設立された。無線機器や関連機器の販売が増加するのに伴い、展示会も開かれるようになった。

JAIAは47年に第1回の「JAIAファア』を開催し、JARLも50年には第1回の『全日本ハムベンション』を開き、52年には「アマチュア無線フェステイバル」に名称を変更させている。また、48年に開かれた第15回JARL通常総会で、7月29日が「アマチュア無線の日」と決まった。わが国で初めてアマチュア無線の電波が発射された日を記念したものである。

47年に開催された札幌オリンピックではJA8IOC局を設け、JARLの会員であれば外国人を含め誰でも運用できるようにした。その結果、683名が運用し、交信局数は21167局に達した。