この辺で、私ごとになりますが、昭和30年代、40年代の私の生活について触れておきたいと思います。わが国の高度成長時代といわれた当時の典型的なサラリーマンの生活を知ってもらうねらいもあるからです。

昭和26年(1951年)に早稲田大学理工学部電気工学科を卒業した私は現在の三菱重工業、当時の東日本重工に就職した。現在では想像できないでしょうが、初任給は4200円。インフレの最中であり、年間2回ほどの昇給があったように記憶している。仕事は船舶の電気設計であった。最初は横浜造船所勤務であった。始業時は朝8時であるが、7時55分になると門が閉まってしまう。

昭和28年、東日本重工(現三菱重工)横浜造船所での進水式直前の船と原さん。

昭和26年(1951年)に早稲田大学理工学部電気工学科を卒業した私は現在の三菱重工業、当時の東日本重工に就職した。現在では想像できないでしょうが、初任給は4200円。インフレの最中であり、年間2回ほどの昇給があったように記憶している。仕事は船舶の電気設計であった。最初は横浜造船所勤務であった。始業時は朝8時であるが、7時55分になると門が閉まってしまう。

したがって「遅刻のありえない工場」といわれていた。当時の民間企業は土曜日も平日勤務であり、休日は日曜日のみ、加えて残業は2時間程度が普通だった。東京から横浜への通勤は30分に1本の横須賀線か1時間に1本の湘南電車を利用した。湘南電車には、暖房も冷房もなかった。冬の通勤では、日の出の時間帯がもっとも寒いことを知ったが、足元が冷えてがまんできず、座席の上に正座して寒さを防いだものです。

昭和28年には、戦後初の軍艦を作ることになり、まずNDS(防衛庁規格)を作ることになり、約5年間防衛庁に出向した。この時、米軍が巨額な開発費をかけたソナー(海中探索システム)の資料を渡され、急に担当者に任命された。自衛艦にも米軍の装備を次々と搭載することになり、忙しい日が続いた。ソナーについては聞いてはいたが、見るのは始めてであり、面白いのでむさぼり読んだ。このような装備をガダルカナル海戦以前から米軍が装備していたとは思ってもいなかった。魚群探知機に比較すると100倍程度も性能が良い代物だった。

4、5年後に、南極観測船の「富士」も手がけた。観測船から写真電送をするため、当初、八木アンテナの設置を考えたが、狭い船上で多くの周波数を送ることは無理であるとわかり、米軍の戦略指揮官が乗船している船のアンテナに注目。船の写真を入手して、引き伸ばしたり虫めがねで見たりしてアンテナを分析した。結局「ログペリビーム」アンテナであることがわかった。文献を探したが皆無に近く、実際に使用されているのだから性能も良く、耐久性も高いのだろうと判断し作ることにした。苦労したが、割合良いものを作ることができた。

この頃、3000人~5000人の居住する米軍の空母5~6隻を見学したが、その装備のすばらしさは今でも勉強になったと思っている。また、ロラン(電波航法)Aについても知ることができた。ロランAは、太平洋戦争中に米軍が開発したもので、飛行機を目的地まで電波で誘導するシステムである。戦時中、日本本土を爆撃した米軍の爆撃機はこの電波の帯に乗って飛んできたものである。

1800~2000KHzの電波を出し、船の位置を割り出すシステムに活用され、戦後、日本の漁船は皆その恩恵に浴した。しかし、昭和54年(1979)開催のWARC(世界無線通信主官庁会議)-79の場で、米国はロランAの電波を止めたいと言い出した。日本と中国は延期を要望し、結局、日本の海上保安庁が引き継いできた。その後、より精密なロランC、NNSS(米国海軍航行衛星システム)、GPS(全地球測位システム)などができたため平成9年5月22日についに停波した。ロランA用の航海計器を手がけたことがあるだけに感無量である。

昭和54年に開かれたWARC-79の会合---CQ出版社発行「アマチュア無線の世界」より