JA1AN 原昌三氏
No.16 私のサラリーマン生活(2)
防衛庁から戻ると、ソ連船を手がけることになった。私は無線だけの担当であったためそれほどの苦労はなかったものの、ソ連の横暴さを十分に知らされた。ソ連側との考えの違い、発想の違い、無計画さに苦労することになる。図面どおり作っても、船引取りの無線監督に作り直せといわれ、直しているとオペレーターがきて作り直せ、さらに、引き取り委員がきてまた、作り直せということになる。不具合は、すべて造船所側の責任、費用負担となるなどソ連側の一方的な発言、押し付けで理不尽な思いを何度もした記憶がある。
その後、勤務は東京の本社に移り始業時間は9時となったものの、今度は逆に夜の限度がなくなった。その頃になると、わが国の造船事業はすでにグローバル事業に育っており、米国、欧州はもちろん海外諸国からの造船受注は増える一方であった。このため、海外との間でテレックスやファックスのやり取りがひきりなしにある。時差の関係から文書やクレームは朝か夕方に届くものが多いが、朝届いたクレームには午後日3時までに、夕方に届いたクレームには退社前の11時か12時までに対策の返事を済ますのが取り決めになっていた。事はその日の内にする決まりであり、夜は何時になろうとも終わるまで帰れなかった。
多忙時は、日曜出勤を含めると月間残業時間が156時間にも達した記憶がある。勤務は「直入、直退を許さず」の決まりがあり、朝、遠方に行く時にも必ずまず出社し、夜、遅くなっても必ず帰社することが義務づけられていた。そのような多忙な中でも、家に帰ってから送信機や受信機を組み立てたり、交信したりしたため、寝るのは夜中の2時、3時の時もあった。加えて、日曜日には皇居内にあるパレス乗馬クラブに通い馬に乗っていた。
実は、私は学習院時代、中学4年に馬術部に入部して乗馬を始めたが、それ以来、乗馬はアマチュア無線と並び私の人生の一部になった。早稲田大学でも入学してすぐに馬術部に入り、毎日馬に乗っていた。戦後間もなくであったが、関東では26校、全国では80校に馬術部があった。現在はさらに多くなっている。私は中学4年からの乗馬経験が幸いし、1年から選手に選ばれ、国民体育大会の馬術競技には第2回から第7回まで出場、25年の愛知国体では優勝することができた。
この他、国体では2位2回、3位3回の記録がある。また、全日本馬術大会甲種馬場馬術競技では、第3回、第4回で優勝した。早稲田大学では、馬の頭数に比べ部員の数が圧倒的に多い。4月には新部員が80名前後も入部してくる。そこで、新人が入部すると気の荒い馬をあてがい、恐れをなして退部するように仕向けたことも今では懐かしい思い出であり、そういうところにも軍隊の名残があったように思う。そのような状況であったため、新入生は、どちらかというと馬場の草むしりばかりさせられていた。
昭和23年11月、八大学純馬術競技で優勝した時の原さん。パレス乗馬クラブで。
アマチュア無線関係では、JARLでの活動を続け昭和27年に理事、43年に副会長、45年に会長となった。一方、馬術関係では昭和39年に日本馬術連盟の理事に就任、50年に理事長、平成5年に会長となり、平成11年に辞任。また、平成4年には東京乗馬機倶楽部副会長、平成6年に会長となった。
このように、昭和30年代から、三菱重工業を退社するまでの40年間はハードなサラリーマン生活の中で、アマチュア無線と馬術の仕事のいわば「3足のわらじ」を履き続けたことになる。今、振り返ると、仕事だけで疲労困ぱい状態のはずであったと思うが、自分自信でも良くもこなしてきたものだと思う。やはり、好きな分野のことは、睡眠時間を削っても、また、土曜、日曜日に休まなくとも疲れないといえそうだ。