アマチュア無線衛星構想の進展に合わせて、JARLは昭和56年(1981年)に「アマチュア衛星打ち上げ準備委員会」(委員長=森本重武・JA1NETさん)を発足させ準備を進めてきた。しかし、初の事業であるだけに多くの問題が発生してきた。まず、科学技術庁は「衛星を素人が打ち上げるなどということは許されない。衛星は国家が打ち上げるものであり、下から願書が回ってくるなどおかしい」と言う。

確かに、それまでの衛星は各省庁が日本のために必要と判断し、国家予算で打ち上げ、運用していた。その難局に際し、小渕さん(後総理大臣、故人)ら「国会ハムクラブ」のメンバーが、当時の箕輪郵政大臣、中川科学技術庁長官を訪問し、衛星打ち上げの実現を要請されたことはすでに触れた。その結果、打ち上げが決まったが、次は資金問題である。米国の衛星「オスカー」は打ち上げの経費のほとんどを国家予算でまかなっているが、日本ではそうもいかない。大蔵省も負担をしてくれるがJARLも資金を集めることになり、さらに、トランスポンダ(レピータ)はJARLが作ることになった。

打ち上げが正式に決定した昭和58年3月には「打ち上げ準備委員会」を「委員会」に名称変更して、具体的に行動を開始した。さらに、その後、米国のNASAから米国のロケットで打ち上げて欲しいという強い要請があった。当時の日本の衛星打ち上げ技術は、ようやく世界の仲間入りしかけた段階であり、それまでの多くの衛星は海外に打ち上げを依頼するケースが多かった。結局、打ち上げは、わが国のH-1ロケットで行ない時期は60年(1985年)の冬と決まった。衛星の名称はJAS-1。トランスポンダの製作費はJARLが負担することになった。

JAS-1用衛星モデル1とモデル2。JARL発行「アマチュア無線のあゆみ(続)」より

製作費は募金によって集めることになり、JARLはその目標額を2億円と決めた。募金には国内はもとより、韓国、ニュージーランドからの協力もあり、約1億3000万円を集めることができた。衛星は1号機、2号機を作ることになり、送受信を行なうトランスポンダはJARLが作り、アンテナは安展工業、筐体はNECが製作することになった。トランスポンダはアップリンク(受信)が144MHz、ダウンリンク(送信)が430MHzであり、アナログとともにデジタル送信を行なうという仕様は世界で始めてである。

製作は、JAS‐1詳細設計が完了した昭和59年3月22日に開始され、JAMSAT(日本アマチュア衛星通信協会)の中継器製作班によって進められた。製作を始めて驚いたのは、衛星用電子部品の価格が予想をはるかに上回って高価であったことだった。例えば,抵抗器を100本注文すると5000万円もかかると言う返事だった。

中継器製作班は、それぞれ勤務が終了した後や休日にJARL技術研究所に集まり、製作を急ぎ、夏休み期間を利用して仕上げを完了させ、8月には第1号機を完成、2号機は翌60年8月に完成した。完成までに同班が費やした時間は延べ2万時間という信じがたいほどの努力の結果であった。この衛星の運用はJARLが行なうことになっており、運用管制局の免許を申請、許可をえてJARLの事務所内に管制局が設けられるようになった。

打ち上げは2月の予定が8月に延び、さらに8月1日の予定は13日に延期された。この日、午前5時45分、宇宙開発事業団・種子島宇宙センターからH‐1ロケット試験機1号が発射され、6時47分に南米上空でJAS-1が切り離された。JAS-1は切り離された瞬間からテレメトリー信号を発射して動作を始めることになっている。その信号はチリ大学の宇宙研究センターで20分後に受信が確認され、次いでこの衛星の軌道に従い英国のサレー大学、さらにJARLの管制局でも受信確認され、無事、成功したことがはっきりした。JARLは、この衛星を「ふじ」と命名した。

アマチュア無線衛星の打ち上げにより、わが国も文字通り世界に伍して活動できる環境を整えた。「ふじ」は、約3年3カ月で電源の寿命が原因で運用を停止したが、その後、平成8年(1996年)8月に打ち上げられたJAS-2(ふじ2号)まで3つの衛星打ち上げに成功している。現在では、ドイツ、フランス、イタリー、フランスなどを含めて、活躍中の衛星は10個以上にもなる。

JAS-2用の衛星を前にした関係者。中央が原会長。