日本のアマチュア無線の歴史はいつからのスタートだったかとなると、いくつかの説がある。これまでも触れたので重複するが、大正11年(1922年)に個人としての最初の私設実験が東京で2局免許されている。次いで昭和2年(1927年)には個人として初の短波実験局が免許されている。アマチュア無線の定義が個人局の免許とすれば大正11年となり、短波帯の個人局とすれば昭和2年になる。

さらに、アンカバー(無免許)送信は、大正13年、14年に関西や東京で始まっている。先駆的なこの人たちは中波、短波へと周波数を進めていくが、初の送信が関西が先か、東京が先かは今となってははっきりしない。いずれにしても、短波の個人局は無免許ながらこの年が最初ということにもなる。その後、太平洋戦争開戦とともにアマチュア無線は禁止され、再開されたのは昭和27年である。このアンカバー時代から今日まで、コールサインの仕組みは、何度も変わった。

大正14年に関西のアンカバー局である梶井謙一さん、笠原功一さんは、かってにコールサインをつける。笠原さんはJFMT、梶井さんはJAZZだった。同様に東京でもこの頃、仙波猛さんはJ1TSと名乗っていた。ともに、独自に名づけたものであったが、ヒントはそれぞれがむさぼり呼んでいた米国のARRL(米国アマチュア無線連盟)の機関紙であるQSTでコールサインがあることを知っていたことや、すでに日本国内で電波を出していた官設実験局がJCS、JOCなどを使っていたことにあった。

昭和2年9月19日の初の短波実験局免許では、第1号の草間貫吉さんはJXAXが付けられた。この年の11月に開かれたワシントンでの国際無線電信会議では、2つの重要なことが決まった。一つは、使用するバンドを「波長」から「周波数」で呼ぶようにしたこと、もう一つはプリフィックス(国際・地域別コード)の採用である。これに基づき、日本はJの次に1から9までの数字がつけられるようになった。ちなみにこれを表にすると別図のようになる。わが国での実施は、昭和3年1月であり、官設実験局も、私設実験局もすべて新コールサインに改められた。したがって、私設実験局はわずか3カ月余りでコールサインを変えざるを得なかったことになる。

J1 関東と静岡
J2 東海・北陸と長野 
J3 近畿と高知・徳島
J4 中国と愛媛・香川
J5 九州
J6 東北と新潟
J7 北海道
J8 韓国と北朝鮮
J9 台湾

 

昭和3年に告示されたエリアコード。 昭和9年には、J1はすべてJ2に変更された。

戦後、わが国の領土から韓国、台湾は消えた。これに伴う次のコールサインの改変は昭和27年6月19日であった。この日、電波監理委員会はアマチュア局の免許方針を発表した。その項目の一つとして、コールサインは地方電波監理局別にJA1~JA8までの8エリアに改められた。実際には監理局は10局あり、さまざまなエリア区分の意見が出たが、結局、関東・信越がJA1、東海・北陸がJA2に共通化されることになった。

この当時、各省庁の地方区分の数はそれぞれが最適な区分けで行なっており、8区分も多かった。したがって、全国を8地区に分割する案も決して不合理ではなかった。いずれにしても、4地域を2つのエリアにまとめたことにより、サフィックスを工夫するなどの苦労をすることになった。関東はJA1AA~JA1VZ、東海はJA2AA~JA2VZが割り振られるのに対し、信越はJA1WA~JA1ZZ、北陸はJA2WA~JA2ZZとすることで落着した。

戦後の再開から昭和20年代のコールサインはしばしば変更され、新潟の安部功さんは短期間の間にJA1WAからJA0AAに変わった。

29年1月にはプリフィックスの後に付くアルファベットであるサフィックスを3桁とすることも認められた。また、この年の12月にはプリフィックスのエリアはJA1からJA0(0)へと10エリアへと拡大されるが、ともに、ハム人口の急増によるものであった。さらに、プリフィックスも変更となる。このプリフィックス変更はサフィックス3文字が満杯となったエリアから始まった。当然、大人口を抱えたJA1エリアであり、昭和41年10月17日からJH1AAAがスタートした。

昭和60年になるとコールサインの再使用が認められるようになった。増加するハムに一部エリアではプリフィックスそのものが不足する恐れが出てきたためである。それまでも、1度廃局したコールサインを同一人が申請すれば再び与えられてきたが、この年の9月1日からは、廃局となったコールサインが他人に与えられるようになった。