JA2BNN 野瀬 隆司氏
No.7 コンテストに本格参加(1)
[国内コンテスト]
1960年代半ばからコンテストへのエントリーを始めた野瀬さんであったが、1966年に結婚して名古屋市中川区に転居、その後1970年に春日井市の高蔵寺ニュータウンへと転居してもアクティビティを保っていた。その頃は、国内コンテスト、DXコンテストの両方に参加していた。国内コンテストでは、JARL関西地方本部主催のXPO記念コンテストが好きでよく出たという。
国内メジャーコンテストと言われる、JARL連盟本部主催のオールJAコンテストやオールシティーコンテスト(現全市全郡コンテスト)は、高出力のクラブ局が幅をきかせて出る周波数が無く、好きではなかった。しかしXPO記念コンテストは全国規模のコンテストでありながら、クラブ局の参加が少なかったため、バーチカルアンテナを使用していた野瀬さんの設備でも楽しめたからだ。当時は7MHzなどのシングルバンドにエントリーすることが多く、「7MHzシングルバンド電信電話部門で全国1位になったこともありますよ」と話す。
1992年、XPOコンテストの7MHzシングルバンド電信電話部門で全国1位になり受賞した賞状。
[DXコンテスト]
DXコンテストの方は、電話ではあまり飛ばないこともあって、電信のコンテストを中心にエントリーしていた。当時よく出ていたのは、米国のCQコミュニケーションズ社が主催するCQWWDXコンテストと、ドイツのアマチュア無線連盟DARCが主催するWAEDC(Worked All Europe DX Contest)だった。
CQWWDXは世界最大のコンテストなので参加局が多いのが理由であるが、WAEDCは、QTCがおもしろいという理由であった。WAEDCのQTCとは、ある局との交信内容(交信時間とコールサイン)を他局に伝えるというもので、交信と並んでこのQTCも得点となるため、高得点を目指すには重要な要素となっている。
1985年、WAEDC電話で全国5位になり受賞した賞状。
[21MHzシングルバンド]
公団住宅からアンテナを撤去した後も移動運用でコンテストへのエントリーを続けたが、月曜日はいつも職場で重要な会議があるため休むことができず、そのため「いつも日曜日の夕刻にアンテナを撤収せざるを得なかったのが悔しかったです」と話す。これが理由で、夜間はあまり局数のできない21MHzのシングルバンドにエントリーすることが多かった。日曜晩のヨーロッパ方面のパスが閉じると撤収することにし、朝の北米パスは諦めたという。
1980年、蛭川の土地を取得し、無線小屋を建てた後は、仮設のアンテナと発電機で運用していたが、移動運用に比べると機材をいちいち持って行かなくても良い分、ずいぶんセットアップが楽になった。無線機は小屋の中にそのままおいておけるし、アンテナや発電機は、運用終了後、物置にしまうだけで良かったからだ。その頃も、アンテナは1本しか仮設しなかったため、21MHzシングルバンドにエントリーすることが多かった。
[電信から電話へ]
1981年末にパンザマスト2本を擁した本格システムが完成し、1982年に100Wへの変更検査に合格すると、電信だけでなく、電話へのエントリーも始めた。その頃も野瀬さんは電信を運用する際エレキーは使わず、コンテストといえどもすべて縦ぶれ電鍵で運用していた。しかし、80年代も半ばを過ぎると、時代は次第にパソコンによる打鍵の時代へと移っていく。昔から縦ぶれ1本でやっていた野瀬さんにとって、パソコンでCWを打つ気にはならなかった。皆がパソコンで打つようになったことが理由で、野瀬さんは、次第に電話に傾倒して行く。
もちろん電信そのものを嫌いになった訳ではなく、「この時代にコンテストに縦ぶれ電鍵で参加していたのではダメだと悟りました」と話す。コンピューターがよくわからないのも理由の一つだというが、一番の理由は「機械化が進んだことで電信の面白さが激減したことです」と説明する。さらに1986年に500Wにパワーアップすると、電話でも入賞できるようになり、そのことも理由となって、ますます電信ではコンテストにエントリーしなくなった。ただし、DXペディション局を呼ぶときは今なおCWも運用している。
1986年9月25日付で、500Wへの変更検査に合格。
[家族とのマッチング]
コンテストは通常、土日の2日間48時間びっしり行われるので、シリアスに参加すると、その週末は他に何もできない。そのため家族との間でトラブルになったという話も良く耳にするが、野瀬さんは「これまでに無線で家族とごたついたことは一度もありません」と言い切る。それは毎週末に運用しているのではなく、月に1〜2回程度に絞って運用していたからだった。特に蛭川にシャックを建設してからは、自宅から運用することもなくなり、和子夫人とは「この週末はコンテストに行くよ」、「行ってらっしゃい」のやりとりで全く問題なかったという。
機器の購入にあたっても「問題が発生したことはない」と言う。「新しく無線機を買うからお金をくれ」と言っても、和子夫人は文句一つ言わなかった。和子夫人は、野瀬さんが飯よりも無線が好きだと言うことを理解していたのだろう。
[給料をつぎ込む]
就職してから結婚するまでの間、野瀬さんは、給料とボーナスのほとんどを無線に使った。母親の維公子さんからは「当時のお金で家1軒分は使った」と言われたこともあったという。会社はボーナスを小切手で支給してくれ、支給日には銀行が会社まで出張してきていたが、そこで換金すると「貯金してくれ」と言われるため、野瀬さんは家に小切手を持って帰り、後日店舗に行って現金化したという。それによって、貯金しなくて済んだからである。
その後、野瀬さんは1966年10月に結婚することになるが、さすがにその年7月のボーナスだけは、「今回だけは使っちゃしけない」と思いとどまり、無駄遣いはしなかったという。それでも、それ以外に蓄えのなかった野瀬さんは、結婚式の費用や、新婚旅行の費用も「両親から多大に援助してもらいました」と話す。新婚旅行から帰ってきた際には、結婚後最初にもらう給与日までの食費すら無くなっていたため、母親に電話入れ、「悪いけど食料を冷蔵庫に入れておいてくれと頼みました」と笑って話す。
新婚当時使っていたバーチカルアンテナの14AVQ。
野瀬さんが高校卒業後に就職した荒川長太郎合名会社は、当時の会社業績が非常に良かったためボーナスが桁違いに高く、「どんどん無線にお金をつぎ込めました」と話す。余談になるが、野瀬さんは社内結婚で、和子夫人が在職中に受け取っていたボーナスは、和子夫人のお父さんよりも高額だったと言う。