昭和4年(1929年)7月10日時点でのJARL会員のリストには、山口さんはコールサインのない「電話局」免許として掲載されている。わが国のアマチュア無線免許の初めは、受信局の他、CW(電信局)、音声(電話局)があり、受信局は当然のことであるが、電話局にもコールサインがなく、呼出や応答には名前が使われた。

昭和4年7月10日当時のJARL会員名簿。山口さんは(話)=電話局と記されている

[山口さんのハム生活]

その「電話局」にコールサインが付けられたのは昭和9年になってからである。山口さんは昭和4年の11月5日の「JARL NEWS」に「10月25日にオンエアしました」と報告している。さらに、昭和6年(1931年)11月の「日本陸上私設無線局名録」では山口さんは「電信」と「電話」の両免許をもつハムとして掲載されている。

このことから推定できることは、山口さんは最初は受信局のみの免許を取得し、昭和4年の7月10日以前に「電話局」免許を取り、その年の夏から秋にかけて「電信局」の免許を取ったことになる。したがって、免許取得日である昭和3年6月27日は「受信局」の免許日であったのではと思われる。「JARL NEWS」への報告時にはJ2CBのコールサインが明示されており、この時には電信免許をもっていたことになる。いずれにしても、山口さんはアンカバー時代と同じコールサインをもらっている。

山口さんがコールサインを得た時期が昭和4年の夏か秋であったとしても、東海地区で最初の正式ハムであることは間違いないし、事実、コールサインはCBである。この当時はサフィックスのAやBは、官公庁、学校、企業に割り当てられ、私設実験局はCであった。さらに、CAが個人には割り当てられているエリアは少ない。

その後、山口さんはJARLの会合にもしばしば参加するが、これまで集めた資料ではJARLが誕生した大正15年頃の山口さんの姿が見えない。山口さんは明治33年(1900年)生まれであり、名古屋で名古屋放送局が試験放送を開始した大正14年6月には25歳前後であり、すでに「ラジオ少年」の時代を過ぎていた。

昭和初期のハムは、ラジオ放送開始に刺激を受けて受信機を自作してから、短波を聞き、そして、送信機を作るようになり、アンカバー交信の道を辿ったことで共通している。大正末には、先に触れたように無線関連の雑誌が次々と発刊された。ラジオ受信機や、送信機の製作、交信の情報は比較的入手しやすくなっていた。また、四日市市からそれほど遠くない名古屋の大須にはラジオ用部品の店もあった。

さらに、推測をすると山口さんは関西のハム達の交信を受信し、あるいは一緒になってアンカバー交信をし、JARLの発足を知った可能性がある。JARL結成は、関東、関西の数名のハムが東京で会合をもち決定し、他のメンバーには無線で連絡された。6月12日(6月28日の説もある)JARLメンバーは、世界に向けてJARL発足を打電した。キーをたたいたのは30名ともいわれており、37名の全員が送信したのかは定かではない。

わが国で個人による無線実験が始まったのは、大正10年か11年と推定されており、いわゆるアマチュアがアンカバー通信を始めたのは、大正14年頃である。関東、関西がそれぞれ別々に交信を始めていた。両地区ではアマチュア無線の歴史が、語り継がれた事柄を含めて書かれているが、それでも正確には「最初の電波は誰が、いつ」かははっきりしていない。東海地区の大正末期から昭和初期の個人の無線送信を探ることはさらに不可能だろう。

1TS 佐藤 1SA 阿久沢 1WY 山本 3CC 山口
1KB 樺山 1SH 1YH 星野 3KI 菊池
1KM 宮崎 1SK 高田 1ZB 矢木 3KK 草間
1KO 森本 1SM 1ZQ 今岡 3QQ 山口
1KW 宮島 1SO 1ZQ 大阪 3ST 竹島
1LT 萩尾 1TN 中桐 2BB 有坂 3WW 谷川
1MO 井上 1TS 仙波 2CB 山口 4TO 佐藤
1MT 高山 1TT 竹田 3AA 笹原    
1MU 1UU 宇津木 3AZ 梶井    
1NE 詠村 1WW 堀北 3BB 井深    

大正14年のJARL結成当時のアンカバーコールサイン。2CBが山口さん

※1ZQは大阪さんが今岡さんを引き継いだ。

[東海支部の独立]

免許を取得した正式ハムを抱えたJARLの活動は、関東支部、関西支部それぞれが独自に進めていた。当時、東京、大阪は簡単に行き来できる距離ではなかった。東海は関西支部の傘下にあり、山口さんは大阪で開かれた支部ミーティングには昭和5年(1930年)の1月と7月に出席している。

昭和6年(1931年)3月15日発行の「JARL NEWS」には「関西支部から東海支部が独立する予定」と掲載され、この年の4月3日に開かれた第一回のJARL全国大会で承認された。当時は各支部ともに支部長を置かず、関東、関西ともに数名の委員が運営していた。独立した東海支部は山口さん1名が委員と決まった。この時、全国大会に出席した東海のメンバーは山口さんの他、久米、大林(当時電話局)西、松田(当時電話局)鷲見(同)さんの6名だった。

昭和6年4月にJARLの第一回全国大会が名古屋で開かれ、東海支部が独立。同時に山口さん(前列右端)が委員になった「アマチュア無線のあゆみ」より

8月29日、東海支部の第2回ミーティングが開かれ、11名が出席している。その後、東海支部の情報は、断続的に「JARL NEWS」に報告されている。各支部ともに、委員の中から、幹事を選出し代表者とし、東海支部では山口さんが就任、事務所も引き続き山口さん宅に置かれた。昭和8(1933)年6月には「幹事も同様本年も1名にて何もかも処理することになり、委員事務も取り扱うことになりました」とややぼやき気味の便りを寄せている。