山口さんはその後も関西支部とのつながりがあり、昭和11年(1936年)7月25日の「関西支部夏季大会」や翌年11月11日の臨時会合に出席している。この臨時会合は、陸軍航空本部が無線技術者を募集するためにアマチュア無線局を集めたものであり、全国的に募集が行なわれた。

昭和12年11月6日付け陸軍航空本部の応募要綱が手元にあるが、待遇は「軍属とし経歴、技量に応じて判任官」であり、期間は「支那事変中」であるが、事変終了後も雇用はめんどうをみる、という条件。目標は50名の募集であるが17名しか集まらなかった。

昭和12年11月11日の関西支部の臨時の会合。出席者は自筆署名。山口さんも出席した。

応募者は、千葉市の下志津飛行学校で教育を受けて、国内勤務の2名を残して中国に渡った。これとは別に、北支航空部隊通信要員として、ハムを含む77名が召集され、この2つのグループは戦地で合流している。「第15航空通信隊」「第15航空情報隊」と呼ばれたこの組織は、結局太平洋戦争終結まで動き続ける。これについてやや詳しいことはこの連載の前の連載「関東のハム達―庄野さんとその歴史」に書かれている。下志津組みには東海のハムの参加がなかったのははっきりしているが、召集組みへの参加があったかはわからない。

[高齢であった東海のハム達]

東海の戦前のアマチュア無線局の特徴は、他のエリアでは多い10代の若者が少ないことである。昭和5年までに東海地区で免許を取得した人は6名いるが、それぞれが免許を取得した時の年齢を調べてみた。「電話局」免許の鷲見さんが19歳、大林さんが23歳、松田さんが27歳とやや若いが、「電信局」免許の山口さんは29歳、久米さんが36歳、西さんは47歳。翌年「電信局」取得の廣間さんも47歳であった。

「電信局」免許の高齢者比率は他のエリアと比較してはるかに高かった。逆に、10代で免許を取得したことがはっきりしている人数は全22名中、3人ほどである。その理由として考えられるのは、東京、大阪と比べ大学の数が少なく、したがって旧制高校、旧制中学の数も少なかったために、10代のハムが誕生しなかったのではないかということである。

中村(旧姓・太田)さんが免許を取得したのは昭和7年(1932年)1月であり、当時すでに28歳であった。それでも、他のエリアでは「一回りも二回りも年上のご年配揃いのなかで、中村さんは目立って若々しく感じられた。名古屋にも若手が誕生したと喝采した」という記録がある。

  電信
電話
電話 受信
のみ
 計  JARL
会員
J1(東京逓信局管内) 67 2 4 73 66
J2(名古屋 〃  ) 9 3 2 14 13
J3(大阪  〃  ) 49 0 0 49 46
J4(広島  〃  ) 7 0 3 10 6
J5(熊本  〃  ) 7 0 1 8 7
J6(仙台  〃  ) 14 1 3 18 16
J7(樺太及北海道〃) 9 0 2 11 9
J8(朝鮮及関東州〃) 0 0 0 0 0
J9(南洋及台湾 〃) 0 0 0 0 0
総計 162 6 15 183 163

昭和9年時点でのエリア別アマチュア無線局数。J2は東海3県と長野、北陸3県を含んでいたJARL発行「日本アマチュア無線のあゆみ」より

※太平洋戦争終結前に日本行政の及んだ区域。朝鮮は現在の韓国及び北朝鮮、関東州は中国の遼東半島、南洋は赤道以北に散在したカロリン、マリアナ、マーシャル諸島らを指す。台湾は現在の区域。

もっとも、それだけに、これらの先輩ハムは後輩の面倒よく見たらしい。四日市の花井さんは22歳で「電信局」の免許を取得したが、「山口さん廣間さんにとくに可愛がられ、家族並に扱ってもらった」と、戦後になって思い出に書いている。中村さんも、山口さんにいろいろ相談していたらしく、おもしろい話しを「Rainbow News」で披露している。米国のハムが勘違いした愉快な話題である。

[YLと間違えられた太田さん] 

中村さんは昭和6年12月8日に米国のウイリアム・オブリスト(W9BEZ)さんと交信したが、QSLカードが品切れだったために、当時の映画女優「栗島すみ子」のブロマイドを使い、手書きのカードを作って送った。翌年の初め、年賀状とともに地元ウイチタ市の地元新聞「イーグル」が届いた。新聞を見て、中村さんは驚いてしまった。

そこには「遠い日本の名古屋は100万都市で、彼女のような無線のできるインテリ女性がいる。日本に対する認識を改めるべきではないか」と書かれていた。交信相手のウイリアムさんが、中村さんをプロマイドの女性と勘違いして、新聞社に話したらしい。中村さんは訂正しようかと悩み、山口さんに相談したが「そっとしておいたほうが良かろう、というのでそのまました」という。

「Rainbow News」は、昭和57年(1983年)に発足した戦前のハムを対象とした「レインボー会」の機関誌である。全員が参加したわけではないが、戦前の思い出話が豊富に掲載されており、現在では貴重な歴史的資料となっている。松田さん、花井さんなども寄稿しており、東京に移った中村さんも会合にしばしば出席していた。

[戦後に四日市クラブで講演] 

山口さんが戦後免許を取得しなかったことは先に触れたが、それでも昭和30年代の後半に「JARL四日市クラブ」で講演をしたことがあった。現在、四日市にお住まいの星崎隆一(JA2OJ)さんが記憶しており「クラブの会長であった森隆(JA2AW)さんが依頼されたと思うのですが、森さんも故人となられ、どういういきさつで講演が行なわれたかはわからない」という。