その後、しばらくして綿巻線、絹巻線が手軽に手に入るようになると、松田さんはマルコニ-の真似を「そっくりやった」という。この頃、地元の新聞に「伊勢にラジオ少年現る」と取り上げられたため「父はますます興に乗った」と林七さんは記している。ラジオ用部品を買うために「母の大切な親譲りの銀のかんざしが一つ消え、自転車のハンドルのニッケルめっきはヤスリで削り落とされ、父親に雷を落とされた」と松田幸輔さんは振り返っている。

検波器のコヒーラを作るためであったが、16歳の時に父親が亡くなる。「そのために父は(うるさい人がいなくなり)ラジオ作りにのめり込めたのでは」と、林七さんは分析している。大正14年(1925年)、松田さんは当時はラジオを聞くだけでも必要であった「聴取無線電話私設許可書」をもらってラジオ放送を聞く。

松田さんの戦前のQSLカード

[アマチュア無線免許]

大正14年には名古屋市中区丸の内に社団法人名古屋放送局が誕生し、6月23日に試験放送、7月15日に本放送が開始された。松田さんはその放送を聞く一方で、短波も受信する。正式にアマチュア無線局(当時は私設無線電信電話実験局)が誕生したのが昭和2年(1927年)。松田幸輔さんは「その頃は7MHzで梶井謙一(当時J3CC)さん、笠原功一(J3DD)さん、河野正一(J3CX)さんらが盛んにやっていた」と記している。

あるいはそれ以前に、アンカバー局の交信を聞いていた可能性もある。その後、免許を取得した松田さんは免許取得の“同期生”である和歌山の宮井宗一郎(J3DD)さん、岐阜の鷲見喜士男(J2CS)さん、大阪の津賀修三(J3DF)さんらと「よく交信した」という。

[宮井コールブック]

宮井さんは「宮井コールブック」でよく知られた人であり、別の連載「関西のハム達。島さんとその歴史」に詳しく触れた。和歌山市で新聞販売店を営んでいた仕事の関係から、大阪毎日新聞社の協力を得て印刷、多少は広告を集めたが、ほとんどを自費で編集して無料で配布した。発行部数は数百部に達し、1人1人に校正を依頼しており、その労力は大変なものであった。

「宮井ブック」は、名前、コールサインのほか、住所、生年月日、年齢、職業、電話番号、免許取得日、免許された周波数帯、電力などが記載されており、年2回発行されたこともある。さらに、号によっては国内放送局リストや、アマチュア無線関連の諸届け書式、アマチュア無線略語なども付記されている。

昭和61年(1986年)、まだお元気であった東京の矢木太郎(J2GX)さんは、散逸してしまっていたこの「宮井ブック」の収集に乗り出し、仲間の「RAINBOW会」会員に呼びかけ、なんとか全10巻を揃えて、JARL展示室に寄贈した。戦前、JARLがコールブックを発行しなかったのは、この「宮井ブック」が存在したためともいわれており、戦前のハムの歴史を調べる上で、まことに貴重な“資料”となっている。

戦前に宮井さんがボランティアで制作、配布した「宮井ブック」

[船で哨戒活動]

松田さんのハム生活に戻る。松田さんが自宅の庭に木柱3本を継ぎ足して建てたアンテナは、3~4Km先からも見えたという。松田さんは「放送局と同じようなきれいな電波を出したい」と、変調の研究に力を入れ、水抵抗を使って変調したりした。また、電力の送電が夜間しかなかったことから電池を電源としたが、市販電池は小さいためB電池には自作畜電池を使用した。コップをケースとして200個作り、100個ずつを交代で使用したという。

昭和6年(1931年)の名古屋で開催された第1回JARL全国大会に出席したり、JARL関西支部の催しなどにも参加。昭和10年(1935年)の第4回JARL全国大会には、111Bを使った1球の7MHz送受信機を自作し持参、「日本初のポータブルトランシーバーとして"梶井賞"をもらった」という。賞は100Wクラスの変調管だった。

松田さんが戦後免許を取得し、しばらくたった頃のシャック

昭和16年(1941年)の太平洋戦争勃発とともに生活は変転する。勤務先の紡績会社は軍需工場となるため同じ市内で転勤。国防無線隊を組織したりし、ついには無線機をもって紀伊半島沖の漁船に乗り哨戒活動をする。戦争末期には米軍が日本攻撃のために、太平洋側から爆撃機B29を飛ばして来るようになり、それをいち早く見つけるためである。

敵機を見つけると、機種、機数、飛行方向などを四日市の御在所岳を経由して名古屋の軍管区司令部に報告する。この頃には迎え撃つ日本軍の飛行機はほとんどなくなっていたが、国民には「空襲警報」を出す必要があった。つらいが重要な役割であった。松田さんは民間人であり、乗っているのも漁船ではあったが、軍に協力していることがわかれば飛行機から機銃掃射を受けかねない危険もあった。

一方、住まいも空襲の危険が迫ってきたために社宅から実家に疎開した。松田さんは軍に協力していたことから、戦時中でも禁止されていた短波ラジオや無線を聞いていた。したがってVOA(ボイス・オブ・アメリカ=米軍によるラジオ放送)を聞くことも許されていた。空襲警報が鳴り出すと松田家ではダイナミックスピーカーを2階のベランダに運び上げて、野良仕事をしている近所の人達に情報を知らせたという。