JA2ZP 森一雄氏
No.9 戦後の東海のハム達(1)
[戦前のハム達の戦後]
戦後になって再び免許を取得した東海地区の戦前のハムは、わずかに5名である。花井さんJA2CMD、松田さんJA2AEA、深田さんJA3AD、佐藤さんJA2AF、渡辺さんJA8NTである。佐藤さんはその後JA1AKBとなって東海地区を去っているため、同地での再免許は2名だけである。今井崎さんも戦後コールサインをもったとの、情報があり、コールサインまで教えてくれた人があったがそのコールサインは他の人のものであり、それが再割り当てかどうか真偽のほどはわからなかった。
戦後、松田さんはJ2AEAを取得して活躍した。RTTY(印字信号・ラジオテレタイプ)設備もある
[花井さんの戦後]
花井さんは、再免許の後はジャンクがある東京・秋葉原に毎月出掛け、アマチュア無線フェスティバル(現在のハムフェア)にも毎年足を運んだ。クワッドアンテナを製作してその性能の良さに驚き「アンテナの研究と勉強が必要だった」と反省したり、コンディションの良い時にはDXにのめり込んだりした。
しかし、一方では陶磁器製造事業を立ち上げるとともに、陶磁器商工業組合の副理事長として、組合会館の再建に尽力するなどの多忙さから、一時シャックから遠ざかる。昭和60年(1985年)に旧コールがもらえなくなると聞き、慌てて兄弟3人が再免を受けた。兄(JA2CLV)弟(JA2DAB)も、相次いで戦後に免許を取得していたのである。
翌昭和61年、花井さんは75歳だった。4月に四日市の病院で腹部の大手術を受けたあと、東京の慶応病院に再入院。東京の矢木さんはそれを知り、見舞いに伺う。「少しやせられたようですが、顔色も良くなかなかお元気で、記念特集号の原稿も何か書きましょう」ということになり、矢木さんは再び出掛けて口述筆記するつもりでいた。
ところが6月になると「文字に少しの乱れもない立派な原稿」が送られてきたため、矢木さんは安心し、9月になって「そろそろお見舞いを」と思っていた矢先になくなられた。9月8日であり、絶筆となったその原稿によって、花井さんについてこのようなことを書くことができた。
[松田さんの戦後]
松田さんの戦後も大変だった。勤務していた紡績会社も敗戦による経営不振であったらしく、松田さんはラジオ受信機を造り近所に販売した。当時は、電機メーカーによる量産ではなく、このようにラジオマニアや電気店が造って供給していた。このため、当時の電気店は「××ラジオ店」の店名をもつところが多く、また電気店を「ラジオ屋」と呼ぶ人も多かった。
その後、放送が始まったテレビ受像機も造ったらしく「一家挙げてテレビの手造となり、家は見物客に占領される始末でした」と、晩年に振り返っている。テレビ放送の初期は白黒テレビであり、ラジオマニアの中にはテレビ受像機造りに挑戦した人もいた。松田さんは、55歳で勤めていた紡績会社を定年で辞め、乳牛の飼育など農業を継いだ。
再び、免許を取得したのは定年が契機になったらしく昭和33年(1958年)。この時は長男の林七さんと次男、松田さんと三男が、それぞれ共用局として申請したが、林七さんの局がJA2YYと2文字コールになったのに対し、わずかな差で松田さんの局はJA2AEAと3文字コールとなった。
このように、一家4人がハムになり、一家族で4人がハムとなったのは日本で初めてということから「私達は一家4局のハム一家です」として、NHKの「私の秘密」に出演した。この時は、日比谷公会堂の4人と、都内のハムと50MHzで交信実演を行った。林七さんは、その時の録音テープを大事に保管しており「時々、懐かしく聞くことがあります」という。
松田さんが晩年に使用したリグ
林七さんによると、松田さんは多趣味であった。「外国語を米国人のライカ先生に習ったり、俳句とか尺八、バイオリンも手がけていました。戦後は謡を始め、海釣りにも父とよく出掛けました」と、お父さんの思い出を書いている。「RAINBOW会」に入会し、時々寄稿しているが、昭和49年(1974年)9月に発行された三重県の「県民グラフ」に2ページにわたって取り上げらた。
「(アマチュア無線)により、顔もわからない相手との心の触れ合いに楽しみを見出し、数え切れない局と交信し、QSLカードも山のようにたまりました。とくに外国との交信では英語の必要性を痛感させられる。日本人の語学レベルがもっとアップすれば世界のアマチュア無線仲間と話すことも可能」と、ハムの楽しさと語学の能力アップを訴えている。
平成6年(1994年)11月の「RAIMBOW会総会」で、91歳の松田さんと100歳の柳瀬久二郎(J2GV)さんに、会員のサインを集めた色紙を贈ることを決め、その場で作られた。平成11(1999年)7月、松田さんは94歳8カ月の長寿で去った。「晩年は聴力の衰えが顕著であり、やがて視力も弱くなった」と、林七さんは追想を書いているが、それでもリグの前に座り続けた人であった。
JARLの会合での森さん(右)と松田さん