戦前は東北で活躍したハムであった二條弼基(J6DO)さんについても、ぜひ触れておきたい。二條さんは東北帝大在学中にハムになり、その後、昭和12年(1937年)に当時の逓信省電気試験所に就職、J2OZとなった。戦後の昭和30年に郵政省に移ったが、昭和51年(1976年)に伊勢神宮の大宮司となられた。どういういきさつなのか調べる余裕はなかったが、戦後のコールサインJG2BMVは紛れもなく、東海のプリフィックスである。亡くなられたのは昭和60年(1985年)8月だった。

[森さんの活躍]

東海地区の戦前、戦後初期のあれこれを綴ってきて、ようやく森さんのハム活動のその後を紹介する時がきた。森さんは昭和32年(1957年)6月21日に第2級アマチュア無線技士の免許を取得し、50MHz帯の自作機を造り7月に申請。翌33年2月28日に落成検査を受けた。当時は並4ラジオ受信機をもっている家もあったため、近所の一部のラジオにBCI(ラジオへの電波障害)がおき対策を施した。

それでも、検査は午前中に終え午後に電波を出し、寺田幸一(JA2UC)さんと初交信した。森さんはどちらかというと、しゃべる(交信)より、送受信機を造るほうが楽しかったが、それでも国内対象のアワードに挑戦した。やり始めると夜寝る間も惜しんでの運用となった。WAJA(国内47都道府県との交信)AJD(国内10エリアとの交信)JCC(国内100-600都市との交信)JCG(国内100-600郡との交信)などのアワードを達成した。

森さんはアワード獲得に熱中した。当時の雑誌、アワード、真空管を写した写真

この年の11月に「電波法」が改正され、アマチュア無線局は「第1級」「第2級」「電信級」「電話級」の4種となった。従来の「第1級」はそのままであり「電信級」「電話級」は新しく誕生したものである。大きく変ったのは「第2級」であった。従来は50MHz以上、8MHz以下で、空中線電力100W以下の無線電話が条件であったが、空中線電力100Wはそのままながら、周波数帯が28MHz以上、8MHz以下へと拡大された。

さらに、電信も加わることになり「新2級」の試験には1分間45文字の速度で5分間のモールス信号試験が加わった。これにともない「旧2級」ハムは、5年以内にこのモールス試験に合格すれば「新2級」に移行できることになったため、森さんはこの制度に挑戦し、電信交信も可能となった。

電信を習得した森さんは、アマチュア無線機器を販売している名南無線の長谷川尚司(JA2BL)さんからの「海外をやったらどうか」との勧めもあり、DXCCオーナーロールを目指す。現在は320エンティティを達成している。この当時、東海支部の支部長は村上茂夫(JA2CK)さんであり、村上さんの自宅が事務所となっていた。長谷川さんや村上さんと交友があった森さんは、早くからJARLの活動にも熱心に取り組んでいた。

[JARL東海支部]

「SWL」会員として、免許を取得する前からJARL東海支部の仕事を手伝っており、免許を取得した昭和32年頃には、東海支部の役員の1人に選ばれていたが、昭和40年(1965年)に会計幹事に就任する。会計幹事職は昭和47年(1972年)まで続けることになるが、この間、東海支部支部長は、村上さんから昭和43年(1968年)に神戸幸生(JA2JA)さんへと変わる。

神戸さんについては、別の連載である「電波通信の技術開発に生きて」で紹介しているが、一宮市に生まれ、ほんのわずかな期間を除き就職したことがなく、地元に「神戸電波研究所」をつくって、1年1件の学会発表を目指して電波通信の研究を続けてこられた。JARL東海支部の支部長は、昭和43、44年の2年間であったが、その後47年から6年間本部理事となり、この間はJARLの副会長にまでなった。

国内で最初に開かれた「ハムの祭典」で挨拶する神戸支部長

神戸支部長時代の昭和43年10月に、名古屋市内の「朝日文化センター」を会場に「ハムの祭典」が開かれた。全国で最初の催しであった。東海各地のアマチュア無線クラブがそれぞれイベントを始めていたのを統合して大規模なイベントとしてまとめるねらいがあった。昭和45年の第3回から47年の第5回までの「ハムの祭典」では、森さんは実行委員長を務めた。

この「ハムの祭典」では、森さんは実行委員を務めた

[森さんの東海本部長就任]

東海支部支部長は昭和45年(1970年)に神戸さんから門口久四郎(JA2UR)さんに替わり、門口さんはJARL副会長に就任する。森さんは門口さんの後任として47年に支部長となり、その年の10月に東海地方本部長となる。JARLはこの年、増加する会員に対応し、全国の10エリア単位に地方本部を設け、傘下の府県をそれぞれ支部とする組織改革を行った。それにともなう役職名の変更であった。