JA2ZP 森一雄氏
No.14 森さんのハム活動(4)
[災害 非常通信]
愛知県は豪雨に弱く、これまでたびたび水害の被害にあってきた。大きな被害が出た大正時代以降の水害を調べてみると、大正元年(1912年)、昭和28年(1953年)、同34年(1959年)、同47年(1972年)、平成12年(2000年)である。この中で最大のものが、昭和34年9月26日の「伊勢湾台風」による被害であり、死者3260名、家屋の全半壊・一部破損41万636棟に達した。
この時、アマチュア無線がどう活躍したのか、残念ながら記録がない。それまで、水害に際してアマチュア無線が非常通信で活躍したケースは、昭和28年(1953年)の「北九州水害」を初め少なくない。「伊勢湾台風」に襲われた前年の昭和33年(1958年)、伊豆地方が「狩野川台風」に襲われ、1269名の死者・行方不明者を出したが、この折にも非常通信が発動されている。
「伊勢湾台風」による大水害に、被災地や、その周辺の何人かのアマチュア局が非常通信をしたが、ここでは森さんの記憶により断片的に再現してみる。この時、森さんは免許を取得して3年目であり「和食の壽屋」に務めていた。非常通信は日赤(日本赤十字)に協力する形で行われ「14、5名のアマチュア局が集まり、何をするかを相談した」という。それが何日かはわからない。水没している市内の交通が困難なことを考えると、早くても2、3日後と思われる。
停電のため、交信をするために自家発電装置のある市役所を中央局とすることになり、森さんは休みを取り、50MHzの無線機をもって参加する。任務は、被災者が避難している避難先のリストづくりを手伝うことだった。結局、森さんは5日ほど休みを取ったが、「壽屋」の社長も「握り飯等の食料を提供するなど、援助してくれた」ことを記憶している。
この体験から、森さんらは組織的な非常用通信網の必要性を痛感し、朝日新聞名古屋本社にあったJARL東海支部の無線機を日赤名古屋支所に移すとともに「日赤無線奉仕団」を結成する。同時に、定期的に「非常通信コンテスト」を実施することにし、電文が間違いなく送信されているか、などの訓練を開始した。東海地方事務局が設けられたのは昭和41年であり、それより6年ほど前であった。
開局後間もない頃のシャック。自作の好きな森さんらしい機器が並ぶ
[DXにのめり込む]
森さんが、DX、海外との交信に力を入れ始めたのは東海地方事務局入りの頃である。DXに本格的に取り組むために、アマチュア無線局「旧2級」から「新2級」の資格に替わり電信を始めたことはすでに触れた。その後、森さんは電信の技量があがる幸運に恵まれる。昭和41年(1966年)から始まった「養成課程講習会」で、受講者の電信技量の採点者になったためである。多くのハム志望者の電信を聞くことによって自然にレベルが高くなった。
しかし、最初の頃は出力が100Wであることや、最適なアンテナでないこともあり、コールがあっても他のハムに取られてしまいがちであった。「500W出力の1アマには太刀打ちできず、悔しい思いをした」。そこで、14MHz、21MHz、28MHzにも取り組んだものの「それでもうまくいかなかった」という。
その内に「呼んでいる時のスキを狙って捕まえるタイミングを会得した。そのタイミングがわかると、楽しくなった」という。また「名古屋DXクラブ」にも所属し、いろいろな情報を集めてノウハウを吸収した。また、クラブメンバーは400MHzを使ったネットを設け、海外局にパイルアップ(応答が集中)する前に連絡しあう体制をつくりあげた。
自作の支柱の上に八木アンテナをあげた
「その頃はコンディションも良く、夕方から深夜にかけてキーを打ちつづけた。なかなか交信できなかったアフリカ大陸やトルコとの交信ができた時は感激しました。また、その時は気がつかなくて、後でコールサインをじっくり調べてみて、珍局であることがわかった時もうれしかった」と、その当時を振り返る。
「交信より送受信機の自作が好き」だった森さんであるが、昭和40年代に入ると自作をやめて,メーカー製の無線機を使うようになる。アンテナもいろいろ使ってみた。森さんはこの頃からアマチュア無線にのめり込み始めた。ハム仲間との交流も広がり、JARLの活動も積極的に始めた。東海地方事務局務めは,そのような森さんの活動を知っている仲間が勧めてくれたためだった。
事務局入りした森さんは「もっとも精力的にDXに取り組んだ年は4、5年の間ですが、その頃は年間1500局から2000局と交信した」といい、これまで集めたQSLカードはざっと3万枚。その3分の1が海外である。その結果がDXCC320エンティティズに結びついた。