160mDXerの一人でもある松本得郎(JA7AO)さんは、160mバンドについてのホームページを開設しているが、その中で日本とボブ・デニストンさんとの交信状況を詳しく報告している。

昭和46年(1971年)3月24日から27日までの記録であるが、それを要約すると、24日夜ワッチをしていると、翌25日の午前0時15分、VS6DRからのコールが569(了解度、信号強度、音調の評価ベル)であり、松本さんがDR BOBと打つと「私はフィル」との返事。その後、ボブさんも、クラークさんも出てきた。

[CR9AKとの交信] 

25日の夜に、ボブさんと島さん、清水さん、杉山峯一(JH1LKH/JA2NQG)さん、岸本さんの順で交信し、ボブさんは最後に松本さんを呼び「CR9AKと交信したいか」と聞いてきた。「ぜひやりたい」と答えると、翌日の時間と、周波数を指定してくれた。松本さんは「急な約束なので多くのJAの皆さんにQSOしてもらいたい」と考えて、可能な限り連絡を取り知らせた。

W0DXボブさん。右は島さん、左は原・JARL会長。

27日約束の時間より30分も前からワッチしていると、20時5分にCR9AKのCQが聞こえてきた。コールしても応答がない。清水さんも聞きつけてコールするが応答なし。島さん、岸本さんも加わって呼ぶうちに、岸本さんに応答があった。結局14人がQSOに成功した。「私にとってはちょうど10番目のカントリーであり、すばらしい夜であった」と松本さんは記している。

[アマチュア無線原点] 

160mバンドはある意味ではアマチュア無線の原点ともいえる。1912年、米国は「アマチュア無線取締法」を制定した。アマチュア無線に対して制限を設けるのがねらいであり、主な内容は(1)使用波長は200m以下(2)電力は1KW以下、というものであった。これまでのアマチュア無線は周波数にこだわらずに交信を続けていたがラジオ放送などの商業無線、官用無線が始まるにともない、アマチュア無線を締め出そうというのが本心だったといわれている。

当時の米国にはアマチュア無線局は約800局に達していたといわれている。当初は200m以下の周波数帯での交信を危惧したものの、ハム達は、200m以下の波長でも十分に遠方との交信が可能なことを知り出した。そして、波長は徐々に短くなっていった。1914年、マキシムさんが中心となったARRL(アメリカ・ラジオ・リレー・リーグ=米国アマチュア無線連盟)が発足、1922年には130mでの大西洋横断交信に成功している。

翌1923年には、160mでの大西洋横断が米国(1MO)とフランス(8AB)との間で成功。ARRLは、これを「大西洋横断テスト」と名付け継続してきた。第二次大戦のため、中断されていたアマチュア無線が再開されたが、戦後になって160mバンドに積極的に取り組んだ米国ハムが現れた。先にも触れたスチュワート(W1BB)さんである。

W1BBスチュウワートさんとシャック。

1953年、彼は世界初のWACを完成したが、さらに再開された「大西洋横断テスト」の一切の面倒を見るなど活躍。日本でも160mバンド゛が開放されると「太平洋横断160mテスト」を計画。1967年12月から68年2月にかけて第1回を実施した。また、「W1BB160m DX会報」を自費で発行し、世界の仲間に郵送した。

[スチュワートさんとの交流] 

昭和41年、スチュワートさんは夫妻で日本旅行にやってくる。京都観光の折には島さんが案内。1969年、世界初のDXCCを完成したスチュワートさんと島さんは「手紙を100通ほども取り交わした」というほどの間柄となった。そのような関係から、島さんのご子息である裕史(JH3AAZ)さんが昭和54年(1979年)、W1BBの自宅に1週間ばかり滞在することになる。ご子息は「冷蔵庫の中の食べ物は自由に取って食べていいですよ」といわれ感激したという。

島さんのご子息裕史さんはスチュウワート宅に一週間滞在する。

この年は、島さん自身はジュネーブで開催されたWARC(世界無線通信主管庁会議)79に支援のため出かけた。一方、ご令嬢はサンフランシスコの姉妹都市である大阪市の行事「サンフランシスコ英語スピーチコンテスト」に優勝、米国への招待旅行に出かけるなど「一家がそれぞれに日本を留守にした年であり記憶に残っている」という。WARC-79では、アマチュア無線に10/18/24MHz、40GHz帯以上の新バンドが使えるようになったなど成果があった会議であった。