JA3AA 島伊三治氏
No.22 大阪万博(2)
島さん、辻村さんの2人は喜ぶとともに悩んだ。ありがたい話ではあるが、JARLとしては万博への出展中止を決めているからである。一方、大阪市側も悩んでいた。アマチュア無線を知らない担当者は、電文がよく飲み込めないばかりか、アマチュア無線局にはおもちゃのような物が持ちこまれるのではと考えていたらしい。
[万博への出展決める]
そういうことも予想していた2人は、アマチュア無線機のカタログを持参していた。「アマチュア局といっても素晴らしい設備であり、日本では立派な機械が作られている。世界中の人との交信ができることは万博の精神にも合っている」と説明し、理解をしてもらった。結局、JARL関西支部としては引きうけることにし、大阪市からサンフランシスコ市に了承の電報を打ってもらうことを依頼した。
関西支部は1月28日に緊急役員会を開催し、支部として協力することを決めるとともに、島さんが実行委員長に選出された。サンフランシスコ市からの返事を待つ間、解決しておかなければならない問題が山積していた。JARL理事会の承認を得ること。電波監理局と万博協会との話し合い。そこで、島さんは電監と万博協会を担当することになった。
JARL理事会は2月15に開催されることになっていたが、その前にJARLの村井洪(JA1AC)会長、原昌三(JA1AN)副会長に事前に根回しを行ない、なんども電話が行き交った。原副会長は郵政省関係を回り、JA3XPOのコールサインを取ってくれた。一方、万博協会では情報通信課の担当者が島さんの仕事関係の知り合いでもあり、すぐに了承してくれた。「後に聞いたところでは内部に反対が相当あったそうです」と島さんはいう。
電波監理局は島さんの勤務先。課長、部長に話しをしたところ「混信だけは絶対に気を付けてくれ。それさえなければ一応OK」という返事であった。万博協会、電監ともに混信をもっとも心配していた。案の定、しばらくして電電公社(現NTT)から「電気通信館で使用するワイヤレステレホンへの混信が心配」との話しがくる。
記念局には常陸宮様ご夫妻もお見えになった。ご夫妻の間は中馬馨・大阪市長、右から原JARL会長、島さん。
[最大の課題、混信問題]
このワイヤレステレホンは、21MHz帯アマチュア無線の真中に当たる21.4MHzを中間周波数に使用しており、設営担当者は廣岡昌明(JA3KM)さん。アマチュア無線にも詳しい廣岡さんは、前年(1969年)の11月に、JARL関西支部に「会場内でアマチュア無線はやりませんね」と確認していた。当時、計画はなかったため、辻村支部長は「どうぞご自由に」と答えているいきさつがあった。
状況が変わったことや、全般的に混信対策をする必要が予想されたため、JARL関西支部は2月3日に混信調査を行なった。「寒い日でした。3KW1台、300W2台の発電機、HFからVHFまでの送信機10台ほどを揃え、JARL、無線機器メーカー、電電公社、万博協会の関係者が協力して、かってない規模で行なわれた」と島さん。
その結果、ワイヤレステレホンは問題なかったものの、万博協会のVIP用ハンディトーキーにすごい混信がでた。万博協会の無線は常時送信状態。そこにアマチュア無線が2波同時送信した場合にひどいことになった。そこで、万博協会が周波数を変えることになった。島さんは「混信の少ない周波数を見つけてくれ、早めに手当てができた、と協会からは感謝されました」と当時を語る。
オペレーターは揃いの制服を着用した。右端のスーツ姿が島さん。
[大幅遅れのサンフランシスコ館]
混信問題は解決できたが、基地にするサンフランシスコ館の建設は大幅に遅れていた。混信調査を実施した段階では、他のパビリオンは建物が完成しているが、サンフランシスコ館はまだブルドーザーが整地している状況。徹夜の工事の結果、1週間前の3月8日頃にようやく建物ができあがったが、無線室がどこかもわからず、アンテナを建てる場所も決まっていない。
東京でも不安視し始め、原副会長は心配してしばしば現地を訪れた。8日、島さんは原副会長に「ことによると開局できない可能性もある。今まで協力してくれた人にどのように謝罪文を書こうか、と考えている」と、半分真剣に話したという。協会からは展示物はすべて、そのパビリオンの敷地でまかなう規定であり、アンテナも他の敷地に建てることはまかりならないといわれていた。
サンフランシスコの館長とは依然連絡が取れない。ようやく9日に島さん、辻村さんはローエンフェルト館長と会うことができた。打合せの後工事現場に行き、局開設の場所を示される。「意外に広いスペースを提供してもらえたが、アンテナを建てる場所はないといわれてしまった」さらに「工事はすべて13日には終了して欲しい」と島さんらは釘を刺される。